salley gardens

   サリーガーデン                          
とびらのむこうは ゆめのじかん。。。

2歳のお子様から80歳の方まで、23年のレッスン経験の中で、いろいろな生徒さんにお会いしました。みなさん、それぞれに自分らしい進路、生き方を見つけ、しっかりと歩いていらっしゃいます。大好きなことを職業に!一生勉強できることを見つけよう!その応援をさせていただけたらと思います。



渋谷区、代々木公園、代々木八幡、代々木上原、参宮橋、初台、代々木、西原、元代々木町、大山町、松濤、神山町、
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小澤征爾先生 私の履歴書21,22,23,24,25,26,27,28,29,30, 日経新聞
私の履歴書 小澤征爾 21-30
情報元 日本経済新聞

(私の履歴書)小澤征爾(21)妻・ヴェラ 音楽会に招いて親しく 喀血の報聞き、海を越え看病
 僕が習った斎藤秀雄先生はオペラを全くやらなかった。だから僕は一度も教わっていないし、オペラのオの字も知らなかった。それを見破ったのがヘルベルト・フォン・カラヤン先生だ。 「指揮者にとってオペラとシンフォニーは車の両輪」がカラヤン先生の持論。「モーツァルトは一生の半分はオペラを書いてる。プッチーニなんて95%だろう。ワーグナーだってそうだ。オペラをやらないのはとんでもないぞ」
 そう言って、先生がザルツブルク音楽祭でモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮する時、僕にアシスタントをやらせた。1968年の夏だった。
 翌年7月、僕はザルツブルクでモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を指揮し、オペラデビューする。当時の僕のキャリアからしたら信じられない大役だ。きっと反対する声もあっただろう。カラヤン先生が「おれの弟子だから大丈夫だ」と言ったのだと思う。
 初めてオペラを振る僕に助言をくれたのが、一昨日亡くなったクラウディオ・アバドだ。一緒に飯を食いながら、コツを教えてくれた。「歌い手と一緒に息を取ればいいんだ」。言葉も満足にできない僕に、しきりにそう言ってくれた。良い友達を失って本当に悲しい。
 妻のヴェラと再婚したのもその頃のことだ。出会ったのは僕がトロントから一時帰国していた時だった。ヴェラは当時、入江美樹という名の人気モデル。誰だか知らなかったけれど、友人に「今から入江さんの家のパーティーに行こう」と誘われて顔を出した。
 そこにいたのはモデル仲間やら俳優の岡田真澄さんやら着飾った美男美女ばかり。映画監督の勅使河原宏さんもいた。片や僕は首の部分に垢(あか)がこびりついたベージュ色のタートルネックのセーターを着ていて、場違いなことはなはだしい。
 さすがに居心地が悪くて2階でお酒を飲んでいると、ヴェラのロシア人のおやじさんがやって来た。べらんめえ調の日本語を話す人で、妙に気が合い、2人でずっと日本酒を飲んでいた。帰り際、僕が1週間後に指揮する日本フィルハーモニー交響楽団の音楽会のチケットをヴェラの家族に渡し、そこでなんとなく彼女とも言葉を交わした。
 ヴェラは実際に音楽会を聴きにきて、それから時々会うようになり、次第に親しくなった。その後、パリに行ったヴェラは知人のサロンで突然喀血(かっけつ)する。結核だった。トロントでその知らせを聞いた僕は仰天して駆けつけた。一晩だけ看病して、後のことはパリにいた友人の彫刻家、藤江孝さんに任せた。特効薬が効いて、1年ほどで無事快復した。
 68年9月、僕たちは駿河台のニコライ堂で結婚式を挙げる。仲人はデザイナーの森英恵さんご夫妻。あとは家族だけの静かな式だった。
 2年後、僕はタングルウッド音楽祭とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就いた。サンフランシスコの前任はヨーゼフ・クリップス。彼とは僕がニューヨーク・フィルの副指揮者をしていた時に知り合っている。僕を見込んで後任に推薦してくれたそうだ。トロントを離れ、アメリカでの生活が始まった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(22)責任感 父失い「もっとまじめに」 葬儀の当日、三島さんも逝く
 サンフランシスコ交響楽団の音楽監督就任披露公演の直前、おやじが71歳で急死した。心筋梗塞だった。息を引き取ったのは1970年11月21日。僕はボストン交響楽団を指揮する予定をキャンセルし、日本にすっ飛んだ。
 みっともない話だが、僕はずっとおやじに頼って生きてきた。音楽のことなんて全く分からない人だったが、何から何まで報告していた。
 僕がN響にボイコットされた時の言葉を今でも覚えている。「人殺しと盗みをしない限り、おまえは俺の息子だ。それ以外のことだったら何でもやれ。最後には俺が骨を拾ってやる」。川崎の家で冷たくなった体に触れた時、この先どう生きればいいか分からなくなった。
 葬儀は日本フィルハーモニー交響楽団の曙橋の練習場で執り行うことになった。だが当日、弔問客が全然到着しない。練習場の周りが騒がしく、道はひどい渋滞だ。近くの自衛隊市ケ谷駐屯地で三島由紀夫さんが自決していた。三島さんはN響事件の時に支援してくれた恩人。おやじの葬式の日に三島さんが死ぬなんて、こんなことがあるのかと思った。
 戦時中、おやじは政府の戦争指導を批判し続けた。立川の家には連日、特高課長が来たが堂々と持論を話していた。葬式の直後、おふくろ宛てに一通の手紙が届く。差出人はまさにその特高課長。「ご主人こそ真の愛国者でした。ご冥福をお祈りします」。読んだおふくろは泣いていた。
 おやじが死んだ後、僕の指揮は変わったと言われる。「もっとまじめにやらないといけない」と心を入れ替えたのは事実だ。71年に娘の征良(せいら)、74年に息子の征悦(ゆきよし)が生まれて責任はさらに重くなった。
 N響での経験のせいかもしれない。指揮者なんていつどうなるか分からないという不安が常にあった。思い余って、子供たちのために他の仕事を探そうとしたこともある。
 実際の状況は悪くなかった。サンフランシスコの音楽監督に就任した後、ボストン響からも音楽監督の話が舞い込む。だが最初は断っていた。あのジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団を鍛えたように、サンフランシスコ響を超一流のオーケストラにしたかったからだ。
 サンフランシスコ響に就任をOKした時、先方のマネージャーのハワード・スキナーはビルの屋上に駆け上がって「ブラボー!」と叫んだらしい。それくらい期待されているのに、辞めてボストンに移ることはしたくない。
 ボストン響の理事会長、タルコット・バンクスとマネージャーのトッド・ペリー(黒船のペリーの子孫だ)が改めて依頼にきた。悩んだ結果、両方やることにした。むちゃな話なのだが、サンフランシスコの後任マネージャーのスカフィーディやビル・バーネル、ヴィクター・ウォンらは「俺たちも協力するから、何とかやってみよう」と支持してくれた。
 ボストン響の就任は73年9月。38歳になったばかりだった。それからは家族がいるサンフランシスコとボストンを往復する日々。移動はたいてい深夜便の飛行機だ。3年もそんな生活を続けていたら血圧がぼーんと上がって、心肥大になった。76年、僕はサンフランシスコの任期を終え、ボストンに専念する。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(23)日フィル解散 楽員スト 説得も実らず 「復活」に奔走、TVで裾野拡大
 日本の音楽界に居場所がなかった僕に、フジテレビ社長の水野成夫さんが「日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者をやれ」と言ってきた時はすごくうれしかった。日フィルは水野さんが作ったオーケストラ。親会社はフジと文化放送だった。1968年9月に就任し、シカゴのラヴィニア音楽祭とトロント交響楽団の仕事と並行して日本でも定期的に指揮した。
 あれは僕が日本にいない時だった。71年、日フィルの楽員たちが待遇の向上を求めて親会社と衝突し、12月にストライキを起こす。日本のオーケストラで初のストだった。
 事態は収まらず、水野さんの後を受けてフジの社長になった鹿内信隆さんら経営陣は翌年5月、日フィルの解散を決める。慌てて帰国した頃にはもう、取り返しのつかない状況になっていた。
 日フィルを創設時から支えていた山本直純さんと、文化放送社長の友田信さんに会いに行った。「細々とでも続けてほしい」「せめて練習場は継続して使わせてほしい」。頼み込んだが、ダメだった。
 一方、楽員の多くも戦う姿勢を崩さない。「音楽なんてケンカするためにやるもんじゃない」と説得したが聞き入れられなかった。
 6月、焦った僕はとんでもないことをしてしまう。日本芸術院賞の授賞式で天皇陛下に「自分だけ賞をもらったけど、今一緒にやっている日フィルは大変なんです」と思わず言ってしまったのだ。その日は風邪で朝から目が腫れ、みっともないからサングラスをかけていた。怪しげな僕の写真が新聞に載り、脅迫めいた手紙が届くようになった。
 生まれたばかりの娘・征良のことが心配で、赤坂のホテルに住んだ。この時に「俺が何とかしてやる」と言ってくれたのが日本船舶振興会の笹川良一会長だ。全日本空手道連盟会長でもあった笹川さんの手配で、僕の音楽会には一時期、空手の強者たちが客席の一番前にずらっと座っていた。ちょっと恥ずかしかったが、ありがたかった。
 結局、日フィルは6月に解散する。最後の定期演奏会で僕はマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮した。シカゴ交響楽団のトランペットのアドルフ・ハーセス、ホルンのデール・クレベンジャーがゲストで吹き、「こんな素晴らしいオーケストラはない」とべた褒めしてくれた。それほど力のこもった演奏だった。
 解散後、直純さんと僕で作ったのが新日本フィルハーモニー交響楽団だ。旧日フィルの楽員の約3分の1が加わった。設立後すぐ、直純さんはテレビマンユニオンのプロデューサー、萩元晴彦さんと音楽番組「オーケストラがやって来た」を始める。番組内での演奏はもちろん新日フィル。
 僕は120%協力するつもりで、可能な限り出演し、親しい外国の音楽家にも積極的に出てもらった。バイオリンのアイザック・スターン、イツァーク・パールマン、ピアノのルドルフ・ゼルキン、ピーター・ゼルキンたちだ。みんな快く出演してくれた。
 直純さんは常々僕に言っていた。「山の底辺は俺がやるから、お前は頂点を目指せ」。その言葉通り、クラシック音楽を分かりやすい言葉で裾野まで広めようとしたのがこの番組だと思う。番組は11年にわたって続いた。直純さんの素晴らしい功績だ。(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(24)斎藤先生逝く 「音楽家とは」一生の教え 弟子が集結、すごい音に興奮
 「小澤よう、俺、胃がいてぇんだよな」。斎藤秀雄先生がそう漏らしたのは1973年の暮れだった。桐朋オーケストラの演奏旅行で神戸に行き、ホテルで一緒に朝食を取っている時だ。「先生、だったらすぐ病院に行かないと」。「おう、行く行く」。そんなやりとりがあってしばらくした後、先生は聖路加病院でただちに入院を言い渡される。大腸がんだった。
 アメリカに戻っていた僕が翌年9月に帰国し急いで病院へ行くと、元もと痩せている体がさらに細くなっていた。体中痛そうで話もままならない。僕はボストンへ発(た)つ予定をギリギリまで延ばし、山本直純さんと病室に詰めた。
 「おまえ、ボストンに帰らなきゃいけないのか」。最初の3日間ほどは顔を合わせる度に聞かれ、「大丈夫です」と答えていた。が、もう会話もできなくなる。痛みに苦しむ様子を見ていて、食事が喉を通らなくなった。
 17日深夜、兄弟弟子の秋山和慶が駆けつけた。長く先生のそばにいた秋山の顔を見て安心したのか、すぐ後に息を引き取る。72歳だった。
 亡くなる直前の8月、先生は無理をして桐朋恒例の夏合宿に行っている。最後の晩、車いすに座って、ほとんど動かない手で指揮したのがモーツァルトの「ディヴェルティメント(嬉(き)遊(ゆう)曲)K136」だ。僕は行けなかったが、録音したテープを後で聴いた。本来は明るく軽快な曲なのに、ゆっくりしたテンポで静かに進んでいる。涙が止まらなくなった。
 「おまえ、横に振れるようになったな」。先生に言われたことがあった。亡くなる前の数年間、先生もまさに横に振るようになっていた。技術だけじゃない音楽の何か、があった。いつか先生にそう伝えた時、「おまえに言われるようじゃ俺もおしまいだな」なんて言われたけど。
 先生が指揮法を体系化したことや、演奏技術について細かく言ったことで「斎藤秀雄の教え方は機械的だ」と批判する人が時々いる。でもそれは全然違う。
 先生が僕らに教え込んだのは音楽をやる気持ちそのものだ。作曲家の意図を一音一音の中からつかみだし、現実の音にする。そのために命だって賭ける。音楽家にとって最後、一番大事なことを生涯かけて教えたのだ。
 先生が亡くなった10年後、僕はそのことを確信する。84年9月、僕と秋山の呼びかけで弟子が集まり、「斎藤秀雄メモリアル・コンサート」を大阪と東京で開いた。
 奏者はバイオリンの潮田益子、安芸晶子、渡辺實和子ら「斎藤共通語」で育った仲間ばかり。練習で「嬉遊曲K136」の第2楽章を合わせた時、そこに斎藤先生が立っている、と思った。しかも今やみんなオーケストラ奏者やソリストとして活躍している。10年前よりすごい音が出た。この「K136」は僕にとって、折に触れ、大事な時に振る曲だ。
 初日の公演の後。日本での僕のマネージャー、平佐素雄君とアメリカにいるマネージャーのロナルド・ウィルフォードに電話し、興奮を伝えた。「そんなにすごいなら日本以外でもやろう」。87年、僕たちはヨーロッパを演奏して回る。「サイトウ・キネン・オーケストラ」の始まりだ。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(25)サイトウ・キネン 松本での音楽祭、幕開け 演奏旅行で成功、日本に拠点
 1987年9月、サイトウ・キネン・オーケストラの初のヨーロッパ演奏旅行が始まった。回ったのはベルリン、ロンドン、パリなど6都市。ウィーンのコンツェルトハウスでの公演の後には、ウィーン楽友協会の人が来て「次はうちに来てほしい」と言われた。反応は上々だった。
 せっかくのオーケストラをこのまま終わりにしたくない。初回の演奏旅行はNECが主にスポンサーになってくれた。この先、どこか支援してくれる企業はないだろうか。そう思っていた時、弟のポンが旧知のセイコーエプソン社員、武井勇二さんに僕の気持ちを伝えたらしい。
 64年1月、僕は中学時代の担任の今井信雄先生に言われてアマチュアの諏訪交響楽団を指揮したことがあった。その時にバイオリンを弾いていたのが武井さんだ。後日には上司の技術部長と訪ねてこられ、セイコー製の高級時計を下さった。以来、武井さんはポンとも親しくなっていた。
 僕の希望を知った武井さんは早速、中村恒也社長に掛け合う。その中村さんこそ時計の贈り主の技術部長で、一晩考えた末に3年間の支援を決めてくれた。89年から91年にかけて僕らはヨーロッパとアメリカを回る。90年にはサイトウ・キネンのメンバーを中核にした水戸室内管弦楽団も発足した。同年に発足した水戸芸術館の専属で、館長は吉田秀和先生だった。
 このまま毎年サイトウ・キネンで外国を回ればいい、と思っていたがマネージャーのロナルド・ウィルフォードは「日本で腰を据えてやるべきだ」と主張した。正直に言って、僕はN響にボイコットされてから日本に住んで仕事するつもりはなかった。そんな様子を見て心配していたらしい。「音楽祭の開催地を募れば絶対に手を挙げるところがある」と僕の背中を押した。
 だが場所探しは難航した。良いホールがあり、音楽を聴く環境が整っている街がなかなかない。そんな折、長野県松本市で県立文化会館を建設中という噂が耳に入った。こっそり見にいくと、とても素晴らしい。吉村午良(ごろう)県知事と松本市の和合正治市長を訪ねて音楽祭の開催を申し入れると、喜んで応じてくれた。セイコーエプソン、キッセイ薬品工業、八十二銀行、アルピコグループ、信濃毎日新聞社など地元企業の協力も得られた。事務局長は武井さんだ。
 92年9月5日。「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が幕を開けた。初日は武満徹さん作曲の「セレモニアル」の世界初演。翌日はストラヴィンスキーのオペラ「エディプス王」を上演した。僕の盟友でソプラノのジェシー・ノーマンが出てくれた。プロデューサーは今やメトロポリタン歌劇場の総裁になったピーター・ゲルブだ。
 「エディプス王」は僕が78年にパリ・オペラ座デビューした時に振って成功している。自信はあった。が、周囲は「お客さんが入らない」と大反対。公演は1回にしましょうと説得されたが頼み込んで2回にしてもらった。蓋を開けてみたらチケットはあっという間に売り切れ。手応えを感じた。
 斎藤秀雄先生がまいた西洋音楽の種を育て、日本に根付かせる。僕の生涯の仕事が始まった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(26)キャラバン出発 生の音楽 小さな村にも 演奏が心に届く喜び教わる
 僕の兄貴分というべき人がいる。2007年に亡くなったロシア人チェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチだ。僕にとっては愛称の「スラヴァ」と呼んだ方がしっくりくる。
 1967年、トロント交響楽団で共演したのが付き合いの始まりだった。彼が「生の音楽が聴けないような過疎の町で演奏しよう」と持ちかけてきたのは80年代のこと。行き先はスペインやシベリアだという。スラヴァは若い頃、アコーディオン奏者の友人とシベリアの各地で演奏したことがあったそうだ。
 「絶対、音楽家になった喜びを味わえるから」と口説かれたが、忙しくてそんな暇はない。断っていたら「日本でやろう」と言い出した。
 だったらやってみるか、と桐朋学園高校の生徒や若いOBを集めて十数人の弦楽アンサンブルを作った。行き先はどうするか。スラヴァは親交のあった当時の皇太子妃・美智子様に相談し、岐阜県白川郷に工房を構えるパイプオルガン製作者の辻宏先生を紹介された。最初の拠点は白川郷に決まった。
 荷台がステージになるトラックを手配し、出発したのが89年8月。第1回の「コンサート・キャラバン」だ。初日は辻先生の工房で深夜まで練習した。遠足気分が抜けなかった若者たちもすぐ集中するようになった。何せスラヴァにみっちりしごかれるのだ。
 翌日からはトラックでお寺や神社の境内、小学校などへ行き、朝、昼、晩と演奏して回った。もちろん入場無料。お客さんは多い時で千人だが、数人の時もあった。
 全身全霊で演奏すると、子供からお年寄りまで、生の音楽に触れるのが初めてという人も熱心に耳を傾けてくれる。中には一人で来て、じっと聴きながら泣く人もいた。「なるほど、これが『音楽家になった喜び』か」と感じた。
 夜はお寺や神社の大広間で雑魚寝。入りきれない学生は村の人たちの家に泊めてもらった。岐阜の後は長野県飯田市、大鹿村、下諏訪町などを回り、最後は諏訪市のセイコーエプソンの体育館へ。1週間のキャラバンが終わる頃には病みつきになっていた。
 音楽になじみのない人たちに向けて演奏する。これは今や僕の大事な活動の一つだ。第1回のキャラバンの少し前からは長野県志賀高原の山ノ内中学校で毎年、小さな音楽会を開いている。
 30年程前に奥志賀高原にスキーのための山小屋を建てた僕は、地元の山男たちの親睦会「常(じょう)会」の人たちやスキー学校の校長で元五輪選手の杉山進さんと親しくなった。音楽会は「子供たちに生のオーケストラを聴かせよう」との話から始まったものだ。
 真剣に演奏すれば必ず相手の心に届く。キャラバンの体験から得た僕の信念だ。キャラバンはその後、93年に新潟へ。2002年と05年には、先日亡くなった盛岡大学の大矢邦宣教授が取りまとめ役になって盛岡市や一関市、宮古市、大槌町など岩手県各地を回った。
 悲しいことに岩手は3年前、東日本大震災で津波の被害に遭った。学生を泊めてくれたホストファミリーで亡くなった方もいる。僕は体の調子が悪かったせいで行けずにいたが、絶対にまた訪ねるつもりだ。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(27)スラヴァの説得 N響で32年ぶりタクト 昔からの友人も病押し出演
 1992年に始まった「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は地元の人に愛される音楽祭にしたかった。幸い、松本市の有賀正市長も同じ考え。市の教育委員会の中に国際音楽祭推進室が置かれた。ここに坪田明男さん、高橋慈夫さん、赤廣三郎さん、宮島吉秀さんが居たおかげで、最初から松本の小学校、中学校と関係を深められた。
 僕らが小中学生のために開く音楽会には何台ものバスが次々やってくる。壮観だった。
 サイトウ・キネンが始まってしばらくした頃、スラヴァ(チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)から突然言われた。「一緒にN響の音楽会に出よう」。冗談じゃない。N響にボイコットされて以来、建物に近づくのも嫌だった。けれどスラヴァはなおも説得する。
 「おまえは今、日本でサイトウ・キネンをやっているだろう? なのにいつまでもN響とけんかしたままじゃだめだ」。確かに一理ある。スラヴァの言う通りかもしれない。渋々OKした。
 95年1月23日、サントリーホールで僕は32年ぶりにN響を指揮した。企画を進めたのは友人の森千二さん。病気やケガで演奏できなくなったオーケストラの楽員のために基金を作る演奏会だった。曲はスラヴァとのドヴォルザークのチェロ協奏曲など。起きたばかりの阪神大震災の犠牲者を追悼するためのバッハ「G線上のアリア」、スラヴァによる「サラバンド」もあった。
 チェロの首席奏者は今は亡き徳永兼一郎。斎藤秀雄先生の弟子で、昔からの親しい仲間だ。がんを患い、もう演奏会には出ていなかったのに「小澤さんが指揮するなら」と一時退院して弾いてくれた。N響で指揮することなんて二度とないと思っていたけど、行ってみたら楽しくやれた。オーケストラの演奏も素晴らしかった。
 アメリカではボストン交響楽団の音楽監督を続けていた。94年にはソニー最高経営責任者(CEO)の大賀典雄さんやNECの援助で夏の本拠地、タングルウッドに「セイジ・オザワ・ホール」が建てられる。
 就任から早20年以上たっていた。いつしか「30年になったら辞めて、後は半分引退しよう」と思うようになった。子供たちの教育のために家族を日本に帰して以来、僕はずっと単身赴任。ボストンを辞めたら日本に帰って家族と静かに暮らすつもりだった。
 99年、意外な話が持ち上がる。ウィーン国立歌劇場の音楽監督の就任を依頼されたのだ。まさか、と思った。世界には歌劇場向きの指揮者がいっぱいいる。僕はそういう指揮者に比べれば歌劇場で指揮した経験はさほど多くないし、一番縁遠いと思っていた。
 妻のヴェラが反対するなら断る気だった。だが相談したら「征爾がオペラをやりたいんだったらいいんじゃない?」。ボストンでも新日フィルでも、オペラを上演する時は毎回大変な思いをしていた。演出家や舞台美術家を選び、一から作り上げなきゃいけない。その苦労をよく知っていたのだろう。
 ヴェラの言葉で引き受けることに決めた。2002年、僕はボストンを辞め、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任する。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(28)ボストン響 理想追い、曲折の29年間 時に反目、洗練と重みに磨き
2002年、僕はボストン交響楽団の音楽監督を離れた。就任から29年。アメリカのオーケストラの音楽監督として最も長い在籍期間だ。
 僕が着任した時のボストン響は、どちらかと言えばきれいで色彩豊かな音を出していた。かつての音楽監督シャルル・ミュンシュやよく客演していたピエール・モントゥーらフランス人指揮者の影響だろう。その代わり、ドイツ的な重みのある音楽はあまり得意じゃなかったように思う。
 僕自身はドイツ系の音楽もしっかりやりたい。例えばブラームス、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー。あるいはやはり重みが必要なチャイコフスキーやドヴォルザークもやりたかった。
 重くて暗い音が出るように、弦楽器は弓に圧力をかけて芯まで鳴らす弾き方に変えた。だけど僕が就任した時のコンサートマスターのジョセフ・シルヴァースタインはそういう音を嫌がり、途中で辞めてしまう。才能豊かで僕とも親しかった。その後、彼は指揮者となり成功している。
 時間をかけて、ボストン響はドイツの音楽もちゃんと鳴らせるようになった。それでいてベルリオーズの「幻想交響曲」といったフランス物も素晴らしい演奏ができる。フランスの洗練とドイツの重み、両面を持つ良いオーケストラになった。
 一度だけ辞任を考えたことがある。タングルウッド音楽祭の講習会を改革した時だ。40年に当時の音楽監督セルゲイ・クーセヴィツキーが創設した際はボストン響の楽員が講師だった。なのに私的なつながりでポストが占められるようになり、僕の時代には一層ひどくなった。教える能力より人間関係が優先された。
 97年、思い切って講師を全員辞めさせ、ボストン響の楽員を代わりに選んだ。僕の決断を「ニューヨーク・タイムズ」は痛烈に批判した。「失敗したら音楽監督は辞めるべきだな」と覚悟を決めた。
 この時、「セイジが正しい」とボストン響の理事たちを説得に来てくれたのが、バイオリンのアイザック・スターン、イツァーク・パールマン、チェロのヨーヨー・マ、ピアノのピーター・ゼルキンらだ。ほとんどの理事と楽員の支持も得られた。
 在任中、僕は楽員の待遇をいつも気にかけていた。根底には日フィル分裂時の苦い教訓がある。ストライキだけは絶対に避けたかった。理事長のネルソン・ダーリンに頼み、楽員の給料を上げてもらった。オーケストラとしては珍しく、彼は遺族年金の制度まで作ってくれた。
 2002年4月、僕は音楽監督として最後の定期音楽会を指揮した。曲はマーラーの交響曲第9番。一音一音に気がこもり、大きなうねりを作り出す。あんなにすごい演奏をされたら指揮者は参るしかない。
 ボストンでは1960年来応援している地元の野球チーム、レッドソックスの試合を観に、暇を見つけては球場へ通った。定位置はダグアウトのそば。ウィーンに移った後はインターネットで観戦した。昨年のワールドシリーズは居てもたってもいられず、アメリカまで行った。見事制覇した時の喜びと言ったら、全くもう。デヴィッド・オルティーズ、ダスティン・ペドロイア、上原浩治、田沢純一には心底しびれた。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(29)ウィーン歌劇場 長年の宿題 オペラ漬け 若手育成へ音楽塾立ち上げ
ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就き、オペラ漬けの日々が始まった。オペラのけいこは普通、長くて2週間くらい。だがウィーンでは新演出のオペラだと6週間もやる。
 最初のうちはオーケストラが入らないから指揮者は行かなくてもいいが、僕は近くに住んでいる。暇があれば顔を出した。演出家がどうやって作品を組み立てていくか、よく分かった。歌劇場内にはほかにもいくつか練習場があり、歌手がけいこしている。一日中のぞいて回った。
 オペラ専門の指揮者がいることも分かった。歌い手と2日くらい合わせただけで、オーケストラとの練習なしにいきなり本番を迎えるのだ。面白かったし、勉強になった。
 「あそこは海千山千だから行ったら殺されるぞ」。ウィーンの音楽監督に決まってからさんざん脅されたが、気にしなかった。僕が鈍感で能天気なのかもしれないけれど。
 僕はいわゆる公式の晩餐(ばんさん)会やパーティーには出ない。昔からそうで、ボストン響でもウィーンでも、数えるほどしか出席していない。理由はもちろん「言葉ができないから」だが、接触が少なくなる分、無用なトラブルを避けられたのかもしれない。
 ウィーンでは就任してすぐ子供のための音楽会を始めた。イオアン・ホーレンダー総裁がサイトウ・キネン・フェスティバル松本で小・中学生向けの音楽会を見て「ぜひウィーンでもやりたい」と言ったのが始まりだ。国立歌劇場に1日7000人の子供を集めて「魔笛」を上演した。これは今も続いている。
 この時代、僕はどんどんオペラにのめり込んだ。日本では若い音楽家がオペラを弾いて勉強する機会が少ないと気づき、教えたいとも思うようになった。
 僕が信頼する奏者が指導し、一流の歌手を呼んでオペラを上演する。歌や芝居をじかに感じてもらう。その考えにロームの佐藤研一郎社長が賛同して2000年、一緒に「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」を立ち上げてくれた。以来、「ドン・ジョヴァンニ」「蝶々夫人」など10作のオペラを上演してきた。
 この音楽塾のオーケストラは今、サイトウ・キネン・フェスティバルでも大活躍している。日本に限らず、中国や台湾の若い演奏家も加わるようになった。
 今年は3月に音楽塾で「フィガロの結婚」を上演する。演出はメトロポリタン歌劇場のデヴィッド・ニース。僕と同歌劇場の指揮者テッド・テイラーで振り分ける趣向だ。音楽塾でオペラを指揮するのは5年ぶり。今から楽しみだ。
 「指揮者にとってオペラとシンフォニーは車の両輪」。40年以上前、ヘルベルト・フォン・カラヤン先生が言った通りだった。息の長い話だけれど、ずいぶん時間がかかってそこまでたどりついた。今では指揮者を見てオペラ向きか、そうでないかすぐ分かる。
 ウィーンでの僕の任期は07年8月まで5年の予定だったが、ホーレンダーから言われて3年延長した。だが06年1月に帯状疱疹(ほうしん)にかかった時やがんが見つかった時は、仕事をキャンセルしなきゃいけなくなった。残念だったが、ここは一度体を立て直すことに専念しようと決心した。
(指揮者)


小澤征爾(30)これから 音楽の追求こそ恩返し 意欲・楽しさ、療養経て一段と
 今月17.19日、僕は水戸芸術館で水戸室内管弦楽団を指揮した。曲はベートーヴェンの交響曲第4番。亡くなった吉田秀和先生の後を受けて、僕が館長になってから初めての定期演奏会だ。交響曲の指揮は2年ぶり。緊張で眠れない夜もあったが、オーケストラが素晴らしい演奏で見事に応えてくれた。
 病気でしばらく休んでいたから、今は一回一回の音楽会に「指揮したい」という気持ちが強くこもる。喜びの密度が前とは違う。
 時間がある分、事前の勉強にもじっくり取り組めている。毎日1時間半くらいかけて、4小節や8小節ずつ勉強する。終わりに近づくと名残惜しくて「明日も同じところをやろうかな」と思う。本当に楽しい。自分で言うのも変だけど、それだけ時間をかけて準備すると耳の精度が上がる気がする。
 振り返ってみて、僕は本当に幸運だった。多くの師に恵まれて経験を重ねられた。僕が学んだことを若い音楽家に伝えようと、この15年程は教育にかなり力を入れている。
 3月にはオペラ教育のプロジェクト「小澤征爾音楽塾」が控えている。6月はスイスの「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」、7月は長野・奥志賀の「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀」で弦楽四重奏を教える。講師陣は僕が信頼する弦楽器奏者ばかり。スイスはロバート・マン、パメラ・フランク、今井信子、原田禎夫、奥志賀は川本嘉子、川崎洋介たちだ。
 8月になればまたサイトウ・キネン・フェスティバル松本がある。僕が指揮するのはベルリオーズの「幻想交響曲」など3曲。来年は、上演機会の少ないベルリオーズのオペラ「ベアトリスとベネディクト」を振るつもりだ。
 サイトウ・キネン・オーケストラを指揮して気付いたことがある。弦楽器がブンブン鳴るのだ。当初からそうだった。弦の厚みがあるから管楽器も遠慮せず吹ける。ブラームスを演奏する時なんか、とても熱い演奏になる。
 斎藤秀雄先生に教わった人の特徴かと思ったらそうでもない。後から加わった人も同じように演奏する。先生の教えが受け継がれ、オーケストラの色になっている。
 中国に生まれ、日本に育った僕がどこまで西洋音楽を理解できるか。一生かけて実験を続けるつもりだ。幸い、昨年には食道がんから「無事卒業」というお墨付きを主治医の先生からいただいた。今後も音楽を追求し、次の世代を育てることが僕の使命だ。それがお世話になった人たちへの恩返しにもなると信じて。
 この連載もついに終わりだ。書ききれなかった話もあるし、紹介できなかった恩人もいる。お世話になったのに触れられなかった方々は「また征爾がへましてる」と思ってどうか許してほしい。
 最後にいつも支えてくれる家族に感謝を伝えたい。外で勝手に音楽ばかりしているおやじだったのに、大病したら家族全員でタッグを組んで助けてくれた。娘の征良がチーフで、妻のヴェラと息子の征悦が全力で協力してくれた。すごい。感謝あるのみだ。読者の皆さんにもお礼を言いたい。読んで下さってどうもありがとう。
(指揮者)
=おわり
| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 08:19 | - | - |
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