salley gardens

   サリーガーデン                          
とびらのむこうは ゆめのじかん。。。

2歳のお子様から80歳の方まで、23年のレッスン経験の中で、いろいろな生徒さんにお会いしました。みなさん、それぞれに自分らしい進路、生き方を見つけ、しっかりと歩いていらっしゃいます。大好きなことを職業に!一生勉強できることを見つけよう!その応援をさせていただけたらと思います。



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小澤征爾先生 私の履歴書13,14,15,16 日経新聞
(私の履歴書)小澤征爾(13)ミュンシュ 指揮で魔法かけたよう 「ぜひ教えて」アメリカ訪ねる
 コンクールが終わって何日かは、緊張が解けたせいか、ホテルの前の川でぼーっと釣りをして過ごした。コンクールはブザンソンの音楽祭の一環で、ほかにも色々な音楽会が開かれている。審査員だったシャルル・ミュンシュが指揮する音楽会があると聞いて、出かけていった。
 全く、あの時聴いたベルリオーズの「幻想交響曲」をどう言い表せばいいか分からない。こんな指揮者がいるなんて信じられなかった。長い指揮棒でもって、魔法をかけられたようだった。どうしたらあんなにみずみずしい音楽が生まれるのだろう。居てもたってもいられなくなった。
 最後のパーティーでのこと。僕は思いきって「ミュンシュ先生」と声を掛けた。振り返った顔は、さっきまで女の人たちと楽しそうに談笑していた様子とは違って、いかにも気難しそうだった。
 江戸京子ちゃんに通訳してもらって伝えた。「弟子にしてください」。返事は冷たかった。「私は弟子はとらない。大体、そんな時間はない」。がっくりきたが、「もし来年の夏にアメリカのタングルウッドに来るなら教えてもいい」と付け加えられた。
 ミュンシュはボストン交響楽団の音楽監督だった。ボストン響が毎夏タングルウッドで開いている音楽祭でなら教えるということらしい。僕らのやりとりをアメリカの放送局、ボイス・オブ・アメリカのヨーロッパ特派員、ヘイスケネンが聞いていた。ボストン響のかつての名指揮者、故セルゲイ・クーセヴィツキーの夫人と知り合いだから、音楽祭に参加できるよう掛け合ってくれるという。
 それを頼りに、僕はパリへ戻った。放送局のラジオ・フランスの主催で僕のお披露目の演奏会と記者会見が開かれたのは10月だったと思う。毎日新聞パリ支局長の角田明さん、画家の堂本尚郎さんが来てくれた。堂本さんに紹介されたのが、有名なナイトクラブ、クレイジーホースの店主アラン・ベルナルダンだ。
 僕が安酒ばかり飲んでいることを聞きつけたか「これからはうちの店で好きなだけ飲め」という。早速その夜に連れられて以来、時々通った。僕が行くと門番がふざけて敬礼する。アランの小さな部屋は四方の棚に酒が詰まっていて、どれを飲んでもよかった。新しい踊り子が入るとヌードショーをのぞく。僕は京子ちゃんと付き合い始めていたから「ばれたら具合が悪いなぁ」と思っていたけど、しっかりばれていた。
 アランとはその後も30年以上付き合いが続いた。ものすごい音楽ファンで、僕がパリで指揮する時には必ず聴きに来てくれた。ある日連絡が途絶えたと思ったら、自殺してしまった。あいつが生きていたらどんなに楽しいか、今でも時々思い出す。
 コンクールの後はそうやって酒を飲んだり、審査員だった作曲家ビゴーのもとで指揮のレッスンを受けたりした。コンクールに優勝すれば仕事が次々来ると思っていたのに、ほとんどゼロ。人生で一番、不安な時期だった。
 ボイス・オブ・アメリカのヘイスケネンさんからは約束通りタングルウッド音楽祭への招待状が届いた。1960年7月、僕は初めて国際線の飛行機に乗ってアメリカ大陸へ渡った。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(14)タングルウッド 音楽祭、若手向けの大賞 NYフィル入り勧められる
 パリからボストンまで飛行機で約9時間。窓からアメリカ大陸が見えた時は「また新しい生活が始まるのだ」と思って、ちょっと感動した。税関を通って外へ出ると、思いがけず出迎えがあった。パリで知り合った数学者の広中平祐さんだ。その晩はボストンの部屋に泊めてくれ、二人で思い出話に花を咲かせた。
 翌朝早く、長距離バスでタングルウッドに向かった。延々と草原が続く道を3時間ほど走って目的地に着いた。バークシャー山脈の中にあって、大きな森に包まれたところだ。ここで6週間にわたって音楽祭が開かれるのだ。
 まず指揮の試験を受け、合格した。これでミュンシュのレッスンが受けられる。さらに音楽祭の間、毎週木曜日に青少年オーケストラを指揮することが決まった。
 宿舎で同室になったのは、ウルグアイ人のホセ・セレブリエール。おどけてて、才能があるところが山本直純さんみたいだった。びっくりしたのがマーラーの交響曲のスコアを勉強していたこと。マーラーなんてほとんど演奏されていない頃だ。僕は名前こそ知っていたけれど、聴いたことはなく、スコアを見るのも初めてだった。
 音楽祭には僕以外に日本人がもう一人いると聞きつけて探しにいった。顔を見ると桐朋のヴィオラの河野俊達先生に似ている。恐る恐る話しかけたら「小澤じゃないか」。本人だった。1年半ぶりの再会に胸がいっぱいになった。
 ミュンシュの教えで強く印象に残っているのが、僕がドビュッシーの「海」を指揮した時のことだ。教えるといっても黙って部屋をうろうろするばかり。仕方ないから後にくっついていくと、しきりにフランス語で「スープル、スープル(柔軟に)」と言っている。つまり指揮するのに力を入れてはいけない、しっかり音楽を感じていれば手は自然に動くということだ。あの頃の僕はノン・スープルで固い指揮だったんだろう。
 僕の音楽会には有名な批評家のハロルド・ショーンバーグも来て、ニューヨーク・タイムズでべた褒めしてくれたらしい。後で知って感激した。
 音楽祭の最後には若い指揮者に与えられるクーセヴィツキー大賞を受賞した。かつてレナード・バーンスタインもとった賞だという。推薦者はミュンシュやクーセヴィツキー夫人らだ。誰かに「クリーヴランド管弦楽団のジョージ・セルか、ニューヨーク・フィルハーモニックのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろう」と言われた。
 クーセヴィツキー夫人やショーンバーグにはバーンスタインを勧められ、それでニューヨークへ行くことを決めた。大賞の賞金で99ドルの「超」中古車を買い、河野先生を乗せて、まずニュー・ヘイブンへ行った。日本フィルハーモニー交響楽団の元コンサートマスター、ブロータス・アールさんに会ってから、ニューヨークへ。桐朋の仲間で、留学していた志賀佳子ちゃんと伊藤叔ちゃんと夕食を共にした。
 何日かいて、ニューヨーク・フィルを訪ねた。秘書のヘレン・コーツが出てきて、バーンスタインはヨーロッパへ旅行中だという。秋にはベルリンにいるから訪ねるよう言った。1960年9月、僕はアメリカを後にしてパリへ戻った。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(15)井上靖さん くじけた心 叱りとばす カラヤンに師事、ドイツ通い
 「カラヤンが弟子をとるためのコンクールを開くそうよ」。アメリカからヨーロッパに戻ってきた僕にそう教えてくれたのはベルリン在住の歌手、田中路子さんだ。田中さんは斎藤秀雄先生と昔から親しく、何かと僕の面倒を見てくれていた。ご主人で俳優のヴィクター・デ・コーバさんは指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと友達で、ご夫妻は「ヘルベルト」とファーストネームで呼んでいた。
 カラヤンが1954年に初めて日本に来てNHK交響楽団を指揮した時、僕は近所のそば屋まで行って、窓越しにテレビでその様子を見ている。コンクールに通れば、あのカラヤンのレッスンを受けられるのだ。
 ところが試験会場で課題曲を間違えていることに気付いた。僕の番は明日だ。慌てて田中さんのお宅にこもり、徹夜で勉強した。50人ほど受けて4人くらい通過した中に、なんとか入ることができた。
 ベルリンでレッスンが始まったのは10月。後に西ドイツの首相になるヴィリー・ブラント市長が援助していて、プロのオーケストラを使うぜいたくなものだった。
 カラヤン先生は技術について細かいことは言わない。その代わり大事にしていたのが音楽のディレクション、方向性だ。時間の流れの中でいかに音楽の方向を定め、そこへ向かうか。いかに自分の気持ちを高ぶらせていくか。それを先生はシベリウスの交響曲第5番のフィナーレを使って僕に教え込んだのだった。
 その頃、パリには成城の同級生の水野チコが住んでいた。結婚した白洲春正さんが映画会社、東和のパリ支店の駐在員になったからだ。夕食に招かれたある日、アパートへ行くときれいな日本女性が出てきた。「いいなぁ、あんなお手伝いを雇えて」。思わずチコに言ったら、ばかでも見るような目で返された。「女優の若林映子さんよ」
 その時同席したのが批評家の小林秀雄さんだ。僕の名前を聞いて「君のお父さんを知っているよ」と言う。戦時中、北京の家を訪ねたことがあるそうだ。おやじは中国の人から贈られた壺を応接間に飾っていた。それをにせものだと気付いた小林さんがたたき割り、おやじが「贈ってくれた人の気持ちを飾っているんだ」と怒って、つかみ合いのけんかになったという。懐かしそうに話してくれた。
 毎日新聞パリ支局長の角田明さんの紹介で作家の井上靖さんに会ったのも同じ時期。井上さんはローマ五輪の取材の帰りで、僕がパリ案内のような役目を引き受けた。当時の僕はいくつかコンクールに受かっていたけれど、仕事はほとんどない。何度か指揮した群馬交響楽団の丸山勝広さんから「日本で一緒にやりましょう」と誘われたから、もうヨーロッパは諦めて日本に帰るつもりだった。レストランで食事しながら、井上さんにそう言うと「とんでもない」と猛烈に叱られた。
 「文学者の場合、外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても理解してくれるじゃないか。どんなことがあってもいなさい」
 はっとした。なるほどその通りだ。思い直して丸山さんに断りの手紙を書いた。井上さんの言葉はその後も心の支えになり続けた。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(16)NYフィル 日本公演 万感デビュー バーンスタインから任され
 カラヤン先生のレッスンに通っている頃、ニューヨーク・フィルハーモニックを率いるレナード・バーンスタインに会いに行った。秋にはベルリンで音楽会を開くと聞いていたからだ。本番の後、彼は僕を「リフィフィ」というバーへ連れて行った。
 ストリップをやっている妖しげな店で、そこでニューヨーク・フィルの副指揮者になるための面接らしきものを受けた。審査委員の楽員たちも一緒だ。ところが僕は英語ができないから何言っているかよく分からない。
 それでも冬には採用を知らせる手紙が届いた。期間は翌年の4月から1年半。だがまだカラヤン先生のレッスンが残っている。迷った僕は手紙を持って先生のところへ相談に行った。「セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークへ行って、終わったらまた来なさい」。温かく送り出され、僕は1961年3月半ば、ニューヨークへ向かった。
 副指揮者はリハーサルに立ち会い、指揮者に何かあれば代役をこなすこともある。僕以外に2人いた。給料は週給100ドル。小切手でもらうのだが、どう換金するのか見当がつかない。困っていたらニューヨーク・フィルのティンパニ、ソウル・グッドマンが僕をカーネギーホール裏の酒屋へ連れて行った。「ここのおやじなら大丈夫だ」と言うので、僕はそこで毎週現金に換えてもらった。
 音楽家のユニオンの費用を差し引くと、手元に残るのは90ドルあるかないか。生活するのがやっとで、いつも腹をすかせていた。この頃よく酒を飲ませてくれたのが彫刻家のイサム・ノグチと流政之だ。
 ニューヨーク・フィルは4月に日本公演を控えていた。もちろん、僕も一緒に行くことになっている。4月24日、僕は日本航空の特別機で羽田空港に着いた。約2年ぶりの日本だ。ハッチが開くと、みんなが「セイジが先に降りろ」と僕を押し出してくれた。出迎えていたのは懐かしい顔ぶれだ。おやじ。おふくろ。兄貴たちに弟のポン。成城の合唱グループ「城の音」のみんな。斎藤秀雄先生もいた。じーんと来た。
 5月、僕はできたばかりの東京文化会館で黛敏郎さん作曲の「饗宴」を指揮した。行きの飛行機でレニー(レナード)に「おまえがやるんだぞ」と言われていた。
 全く感激のデビューだったが、残念だったことがある。客席にいたはずの斎藤先生は終演後、僕を訪ねないで帰ってしまったのだ。話したいことはいっぱいあった。ヨーロッパにいる間も折々に手紙を出していたけれど、僕が勝手に外国へ飛び出したことが尾を引いていた。先生はドイツで音楽を勉強した人だから、僕にはドイツのオーケストラを指揮してほしかったのかもしれない。何となくまだぎくしゃくしていた。
 5月に日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して、夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った。翌62年1月には江戸京子ちゃんと結婚する。給料が150ドルに上がった。いつもの酒屋に小切手を持って行ったら、おやじが「おっ、上がったな」とニヤリとした。
 その年の5月、僕はニューヨーク・フィルの副指揮者の任期を終え、今度はNHK交響楽団を指揮することになった。
(指揮者)



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