salley gardens

   サリーガーデン                          
とびらのむこうは ゆめのじかん。。。

2歳のお子様から80歳の方まで、23年のレッスン経験の中で、いろいろな生徒さんにお会いしました。みなさん、それぞれに自分らしい進路、生き方を見つけ、しっかりと歩いていらっしゃいます。大好きなことを職業に!一生勉強できることを見つけよう!その応援をさせていただけたらと思います。



渋谷区、代々木公園、代々木八幡、代々木上原、参宮橋、初台、代々木、西原、元代々木町、大山町、松濤、神山町、
富ヶ谷、原宿、神宮前、幡ヶ谷、笹塚、中野、阿佐ヶ谷、新高円寺、方南町、つくば、土浦、福岡

幼児教室、桐朋、音楽教室、ピアノ教室、リトミック、ソルフェージュ、聴音、音感教育、わらべうた、
声楽、アイリッシュ民謡、ケルト民謡、賛美歌、聖歌、マザーグースの唄、子守唄、古楽、コーラス、
ボーイソプラノ、チェンバロ、スピネット(小型チェンバロ)、ピアノ、音大受験、音高受験、宝塚受験、
レース、クロシェレース、アイリッシュクロシェレース、編み物、クロシェ編み(かぎ針編み)、手芸教室
<< 小澤征爾先生 私の履歴書 5,6,7,8, 日経新聞 | main | 小澤征爾先生 私の履歴書13,14,15,16 日経新聞 >>
小澤征爾先生 私の履歴書9,10,11,12
(私の履歴書)小澤征爾(9)1959年2月 縁に助けられ日本たつ 反対した師匠から「はなむけ」
 外国行きの見通しが立たず、僕はすっかり意気消沈していた。あれは桐朋恒例の北軽井沢での夏合宿の後だ。軽井沢の駅の待合室で成城の同級生、チコこと水野ルミ子にばったり会った。「征爾、何落ち込んだ顔してるの」。外国で音楽を勉強したいが手立ても金もない、と説明したら「うちの父に話してみる?」という。チコのおやじは水野成夫(しげお)さんといって、文化放送やフジテレビの社長だった。
 その足でチコの別荘へ行き、水野さんに会った。顔を合わせたことはあったが、ちゃんと話すのは初めて。僕の話を聞いて「本気なんだな?」と念を押すと、すぐに四ツ谷の文化放送へ行け、と言った。向かった先では重役の友田信さんが資金を用意してくれていた。確か50万円だった。
 桐朋の同期、江戸京子ちゃんのおやじで三井不動産社長の江戸英雄さんにもずいぶん助けられた。その頃うちのおやじがやっと歯医者に戻り、川崎に家を建てたから、仙川の桐朋まで通うのは大変だった。江戸さんはそれを知って、下落合の自宅に僕が寝泊まりできる部屋を用意したり、ご飯を食べさせてくれたりしていた。そもそも桐朋の音楽科は江戸さんが桐朋の生江義男先生たちと力を出し合って作ったものだ。
 その江戸さんが話をつけて、日興証券会長の遠山元一さんからも資金をいただいた。さらに江戸さんの手配で、フランス行きの貨物船に乗れることになった。
 あとは向こうでの足がいる。僕はスクーターで移動することを思いついた。江戸さんの家によく出入りし、後に彫刻家になった藤江孝さんと毎日新聞記者の木村さんと手分けして、片っ端から自動車会社に電話してスクーターの提供を頼んだ。が、良い返事はない。結局、おやじの満州時代の同志で、富士重工業の松尾清秀さんがラビットスクーターを用意してくれた。
 出航は1959年2月と決まった。準備やら送別会やらで忙しい日が続いた。スクーターは横浜で貨物船に預け、僕は神戸から乗船することにした。神戸に向かう前日は家族で水入らず。おやじが大まじめな顔で「水杯(みずさかずき)だ」と言い、2人で酒を酌み交わした。
 一つだけ、心に深く刺さっていたトゲがあった。斎藤秀雄先生のことだ。先生は僕のヨーロッパ行きに「まだ早い」と強く反対していた。最後には「まだベートーヴェンの(交響曲第)9番を教えていないからだめだ」と言われた。それを一方的に「行きます」と伝えて、逃げ出すように別れたきりだった。
 出発の夜。東京駅には大勢の人がプラットホームまで見送りに来た。桐朋のみんなや成城のラグビー仲間、合唱グループ「城の音」のメンバー、「三友合唱団」のおばさんたちもいて万歳三唱してくれた。涙が出てしまいそうで、みんなの顔をまともに見られなかった。
 その時だ。夜のホームの向こうから斎藤先生がトボトボ歩いてきた。コートのポケットから「これ、使えよ」と分厚い封筒を出してきた。後で確かめたら1000ドル近く入っていた。何より来てくれたことがありがたかった。おかげでどれだけ気が楽になったかしれない。いよいよ出発の時間が来た。下の俊夫兄貴と三等寝台に乗り込み、窓からみんなに手を振り続けた。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(10)淡路山丸 船員と投合 愉快な船旅 スクーター整備、暇見て訓練
 列車がとうとう動き出し、僕は3段ベッドの一番上に寝っ転がった。さっきまで仲間が大勢いたのに今は俊夫兄貴と二人きりだ。さすがに少ししんみりした。翌日、京都に着き、江戸英雄さんに「泊まっていけ」と言われていた日本旅館「土井」に一泊した。
 僕が生きて帰れないだろうと思って、最後のプレゼントのつもりだったのかもしれない。ずいぶん立派な旅館だった。一晩に2組しか泊めないという。兄貴と懐石料理を食べて檜(ひのき)風呂に入って寝た。
 翌日。神戸港で三井船舶の貨物船、淡路山丸に乗り込んだ。タラップが上がる。いよいよ出港だ。心配顔で埠頭に立つ兄貴に向かって甲板から叫んだ。「俺、ちっとも寂しくねえや」。そうして僕の長い旅が始まった。1959年2月1日、23歳だった。
 感傷はあまりなかったように思う。それより横浜で先に船に預けておいたスクーターのことなんかが気がかりだった。おまけに兄貴にギターを買っておくよう頼んだら、どういうわけか紙袋に入れてきたので、どう持ち運ぼうかとか、つまり現実的な心配が先に立った。
 旅は全く新しい体験の連続だった。日本を出て最初に着いたのはフィリピンだ。イロイロという港でしばらく停泊した。島の税関の若い男が船に来たので、ギターを弾いて歌を歌った。言葉は通じないがうまが合って、3日間イロイロを案内してもらった。美しい田舎街だった。インドのボンベイ(現ムンバイ)では船長さんのおごりで有名なヴェーグ四重奏団の音楽会を聴きに行った。
 男ばかり50人ほどいた船員さんたちはみな気の良い人たちだった。食うのが好きで、毎食うまいものが出る。コーヒーの味と匂いも覚えた。風呂は海水をあっためたのに入る。体がすっきりして何とも気持ちがいい。僕の部屋は船長室の横。ある午後、窓から外を眺めたら、水平線の向こうまで海が真っ平らに広がっているのが見えた。沈む夕陽の美しいこと。じっと見とれた。
 それにしても船旅は長い。暇にあかせて、スクーターを何日もかけて解体して、また組み立てた。故障した場合に備えて、事前に富士重工業の工場で組み立て方を教わっておいたのだ。そのやり方を忘れないように船でも時々練習した。
 親切な甲板長さんがその作業を手伝い、スクーターの横っ腹にペンキで日の丸を描いてくれた。大工の船員さんに言って、ギターを持ち運びできる木の箱も作ってくれた。船上で合唱したのも懐かしい。手書きで男声2部合唱の楽譜を作り、僕がギターで伴奏して「春のうららの〜」と歌う。実に愉快だった。
 船はインド洋を回ってアフリカへ。スエズ運河が渋滞しているので3日も4日もイカリを下ろして止まった。街へも行けないし、やることがない。若い船員さんたちと海に飛び込んで遊んでいると、船長が拡声器で「すぐやめろ!」と大声で怒鳴った。何だと思って甲板に上がったら、反対側に人間の3倍くらいあるサメが泳いでいた。ガタガタ震えが止まらなくなった。
 スエズ運河を通って地中海に入った船は3月23日早朝、ついにフランス・マルセイユに入港する。神戸港を出てから2カ月近くたっていた。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(11)パリへ スクーター 欧州駆ける 「強制送還だ」大使館から苦言
 マルセイユからスクーターに乗って、いよいよ出発だ。スクーターを提供した富士重工業が出した条件は3つ。日本国籍を明示すること、音楽家であることを示すこと、事故を起こさないこと、だった。それで僕は日の丸つきのスクーターにまたがり、淡路山丸の船員さん特製のケースにギターを入れてパリを目指した。泊まるのは決まって若者向けの安宿だった。
 道中で菓子を売るスタンドを見つけた。立ち寄って看板の文字を見ながら「この『ピー』をくれ」と言ったらまるで通じない。英語のパイ(pie)だった。全く、語学だけはちゃんと勉強した方がいい。
 パリに着いたのは4月の上旬。旅の疲れと寒さでひどい風邪を引いてしまった。ちょうど音楽評論家の吉田秀和先生が来ていたから、ホテルを訪ねて薬をもらった。座薬を渡されたがそんなもの使ったことがない。飲み込んでしまって一向に治らなかった。
 パリには、以前日本で斎藤秀雄先生にチェロを習っていたローラン史朗の一家がいた。お母さんが日本人で、うちへ行くと日本の飯を食わしてくれる。僕の座薬事件を面白がって会う人ごとにばらされた。そこによく来ていたのが国立高等音楽院に留学中のピアノの江戸京子ちゃんとバイオリンの前田郁子さんだ。
 画家の堂本尚郎を紹介してくれたのは京子ちゃんだったと思う。すぐに仲良くなって仲間の集まりにたびたび招いてくれた。中には彫刻家のイサム・ノグチもいた。心細い異国の地で仲間ができるのはありがたいものだと知った。
 僕が落ち着いたのは大学都市のイギリス館というところだ。切り詰めれば1年はいられる計算だった。大学都市の食堂で食べれば安く済む。小瓶に入った安ワインばかり飲んでいた。日本を出た後、斎藤秀雄先生がレオン・バルザンという指揮者への紹介状を送ってくれたので、そこでレッスンを受ける以外は音楽会へ通った。ほかにアテはなかった。
 6月のある日、京子ちゃんが「指揮者のコンクールがブザンソンであるわよ」と教えてくれた。せっかくだから受けてみよう、と早速願書を取りに行った。締め切りはまさにその日。しかも外国人は大使館の証明が要るという。
 急いで日本大使館に行ったらどうも様子がおかしい。イギリス館の家賃の支払いが何度か遅れたことを調べられた。おまけに僕はちゃんとした留学生じゃない。怪しまれて「証明どころか強制送還だ」と脅された。飛行機で送り返し、旅費は後で親に請求するという。そんなことになったらおやじに殺される。ほうほうの体で逃げ出した。
 イギリス館の同室のロジャー・ホルムズというオーストラリア人のピアニストが、窮状を見かねて「アメリカ大使館に知り合いがいるから一緒に行こう」と言った。わらにもすがる思いで向かった。
 対応したのはカッサ・ド・フォルテという恰幅(かっぷく)の良い女性だった。僕の説明を聞くと「おまえはいい指揮者か、悪い指揮者か」と尋ねてきた。「僕はいい指揮者だ」。でっかい声で言ってやった。カッサ・ド・フォルテは大笑いしたが、目の前ですぐコンクールの事務局に電話して掛け合ってくれ、何とか受けられることになった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(12)コンクール 開き直って指揮 初優勝 日本人は僕だけ、緊張の極み
 ブザンソンはスイスとの国境の近く、静かで美しい街だった。これからコンクールが始まる。歓迎パーティーに顔を出したら来ている連中はみんな自信があるように見えた。日本人は僕しかいない。
 第1次予選は9月7日で、48人が受けた。課題曲はメンデルスゾーンの「ルイ・ブラス」序曲で、思い思いのやり方でオーケストラを仕込む。といっても僕の場合、言葉が通じない。でも音楽用語は世界共通だ。「アレグロ!」「フォルテ!」などと大声で連発しながら指揮したら思いがけずうまくいった。思い切ってやってやれと度胸を固めたのがよかったのかもしれない。1次通過の17人に入った。
 2次予選は9日。今度も難関だ。課題曲はサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」とフォーレの組曲「ドリー」の第5曲。フォーレの方は、オーケストラのパート譜にわざと間違いが書き込まれている。例えばホルンとトロンボーンを入れかえてある。指揮しながらそれを指摘するという課題だった。
 神経を集中してオーケストラをじっと見つめた。誤りを発見すると途中で止める。僕は12の間違いを全部指摘できた。これは聴音の小林福子先生のもとで特訓を受けたおかげだ。終わった後、審査員席からどよめきが起こり、ぐんと自信がついた。2次も通過。もう6人まで減っていた。10日夜、とうとう本選だ。パリから江戸京子ちゃんと前田郁子さんが来てくれた。
 最後の課題曲はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ヨハン・シュトラウス「春の声」。作曲家ビゴーがコンクールのために書き下ろした曲もあった。変拍子の難しい曲で、これを5分で見てすぐ指揮しなきゃいけない。
 クジ引きで僕が最初に出場することになった。さすがに緊張の極みだったが、僕のポケットには斎藤秀雄先生に教わった大事なものがいっぱい詰まっている。動じず、思う存分棒を振った。
 結果発表はその日の夜遅くだったが、お客さんもオーケストラも残って待っていた。舞台の上から入賞者の名前が次々に読み上げられる。時間がとてつもなく長く感じた。最後に「ムッシュー、セイジ・オザワ!」の声が響いた。僕が1等だった。「ブラボー!」の歓声とすごい拍手が起こった。
 ステージの中央に呼ばれて賞金と腕時計、賞状をもらった。それからはもみくちゃだ。カメラに取り囲まれて、インタビューぜめにあった。
 もちろんうれしかった。でも「これでまだしばらくヨーロッパに居られるな」という安心の方が大きかった。何せコンクールの前、僕はあわや強制送還というところだったのだから。
 優勝の翌日、審査員の一人だった指揮者、ロリン・マゼールの部屋に呼ばれた。何かと思えばニヤニヤしながらピアノを弾き始める。本選の「牧神」でオーケストラがうまくできなかったところをわざとそのままにして僕に聴かせた。彼は若くして天才と呼ばれていて、その後、作曲家のナディア・ブーランジェのサロンで会った時も輪の中心にいた。僕なんか縮こまってコーヒーを飲むばかりだった。「牧神」を弾かれた時も「ホテルの部屋にピアノがあるなんてすげえな」と思った。
(指揮者)



| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 09:52 | - | - |
CALENDAR
S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE