salley gardens

   サリーガーデン                          
とびらのむこうは ゆめのじかん。。。

2歳のお子様から80歳の方まで、23年のレッスン経験の中で、いろいろな生徒さんにお会いしました。みなさん、それぞれに自分らしい進路、生き方を見つけ、しっかりと歩いていらっしゃいます。大好きなことを職業に!一生勉強できることを見つけよう!その応援をさせていただけたらと思います。



渋谷区、代々木公園、代々木八幡、代々木上原、参宮橋、初台、代々木、西原、元代々木町、大山町、松濤、神山町、
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小澤征爾先生 私の履歴書 5,6,7,8, 日経新聞
(私の履歴書)小澤征爾(5)ラグビー少年 隠れて練習、指の骨折る 「指揮者はどうか」先生が促す
 成城学園中学に入ってしばらくすると、同級の松尾勝吾(あの新日鉄釜石の松尾雄治の叔父だ)に誘われてラグビーを始め、たちまち夢中になった。ポジションはフォワード。放課後は毎日、夕方遅くまで運動場を走り回った。
 豊増昇先生のピアノのレッスンがある日は、泥まみれの格好でお宅へ通う。兄弟弟子にはいま「左手のピアニスト」として活躍する舘野泉がいた。昔から貴公子みたいな男で、しゃれてモダンな奥さんにとても気に入られていた。その横で僕は随分むさ苦しく見えていたに違いない。
 舘野たちほかの弟子はリストやショパンを弾いていたが、僕がやらされたのはなぜかバッハばかり。うんと課題があって、必死で練習した。あの頃はピアニストになるつもりだった。
 同学年の安生慶、奥田恵二と初めて室内楽を演奏したのもこの時期だ。安生がバイオリンで奥田がフルート。山中湖にあったうちの別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第5番を練習した。1人のピアノ音楽ばかりやっていた僕は、仲間と音を合わせる喜びを知った。
 金田村から通学するのがあまりに大変なので、成城の酒井広(こう)先生のお宅に下宿した時期がある。先生は日本人と結婚したイギリスの貴婦人で、学校で英会話を教えていた。お宅にはピアノがなかったので、夜になると暗い森の中にある成城の音楽室まで行って練習した。その後は成城の教会の平出牧師の厚意で2階にも一時下宿し、オルガンでバッハを練習していた。
 バッハといえば豊増先生はその鍵盤楽曲の全曲演奏を始めたばかりだった。練習曲でも何でも全て弾く。弟子だから行かないといけない。「こんな退屈な音楽会あるか」と思って聴いていた。全くもったいない話だ。しかもおやじのミシン会社が失敗してうちがスッカラカンになってしまったから、途中から月謝は滞りがち。最後はただで見てくれたのだからありがたい。
 うちは本当に貧乏で、成城の学費を滞納するのもしょっちゅう。家計を支えたのはおふくろの内職だ。毛糸を編んで「九重織」というネクタイを作り、銀座の洋品店「モトキ」に卸していた。これが結構はやったのだ。機の両端を自分の腰と家の柱に結びつけて、一日中織っていた。
 おふくろは「ピアノを弾いているんだから指は大切にしないといけない」と言って、ラグビーを禁止した。それからは練習が終わると成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預け、何食わぬ顔で帰った。おふくろは内職で忙しいから気付かない。が、とうとうバレた。
 あれは中学3年になる直前だったと思う。成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながった。そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ、入院するはめになった。
 それからはさんざんだ。両親と兄貴たちには叱られ、弟にはあきれられた。退院後、包帯だらけの情けない姿で豊増先生のお宅へ行った。「もうピアノは続けられなくなりました」。そう言うしかなかった。「音楽はやめるのか」。黙っていたら先生が口を開いた。「『指揮者』というのがあるよ」。初めて聞く職業だった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(6)指揮者を志す 弾き振り見て「これだ!」 担任が父に太鼓判、弟子入り
 指のケガでピアノが弾けなくても、音楽はやりたい。中学3年の時、同学年の安生慶と2級下の女の子たちで賛美歌を歌う合唱グループを作った。同学年の清水敬允や山本逸郎、俊夫兄貴、弟のポンも入った。僕が初めて指揮したのはこのグループで、今も「城(しろ)の音(ね)」の名で活動している。
 成城に昔からある男声合唱団「コーロ・カステロ」にも顔を出し、黒人霊歌やロシア民謡を歌った。指揮はOBの河津祐光(すけあき)さんだ。うねるハーモニー、アクセント、リズム。指揮で音楽が変わることを経験し、衝撃を受けた。
 ある日、日比谷公会堂でピアニストのレオニード・クロイツァーがベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」を弾きながら日本交響楽団を指揮するのを聴いた。ゾクゾクした。やはりその頃、安生に連れられて四ツ谷の聖イグナチオ教会でパイプオルガンを聴き、胃袋がぶるぶる震えたことがあった。同じような感動があった。これだ! と思った。
 でも指はまだ思うように動かない。本当に指揮者を目指すか、すごく悩んだ。そんな様子を見ておやじはこっそり、担任の今井信雄先生に相談したらしい。先生は3年間ずっと受け持ちだった。学校を出たてでまだ若く、その風貌から僕らは「山猿」と呼んでいた。おやじとは大酒飲み同士、気が合ったようだ。
 「彼はピアノより指揮者の方が向いています」。飲み屋で先生が断言したもんだから、おやじは安心し、僕が指揮者になるのを応援するようになった。随分たってからその事実を知り先生に確かめた。「実はあの時、指揮者が何だか全然知らなかった」と言うんだから、全く笑い話だ。
 一方、おふくろは「うちの親戚に指揮者がいるよ」と教えてくれた。おふくろの伯母のおとらさんの息子がチェロ弾きで、指揮もやるという。名前を斎藤秀雄といった。
 おふくろに書いてもらった手紙を持って、一人で麹町のお宅を訪ねたら、うんと怖そうなやせた人が出てきた。手紙を差し出して「弟子にして下さい」と頼んだ。「普通は親と一緒に来るもんだ」とあきれている様子だったが「1年後に桐朋学園の音楽高校を作るから、そこに入りなさい」とのことだった。
 先生は戦後、作曲家の柴田南雄や入野義朗、ピアニストの井口基成、声楽家の伊藤武雄、音楽評論家の吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を作り、基礎から音楽を教えていた。今度は普通高校の桐朋に音楽科を設けるという。
 まず成城の高校に進学して1年待つことにした。その間に柴田先生に作曲を、聴音を小林福子先生に習った。指揮は斎藤先生の弟子の山本直純さんに基本を教わり、月に2度ほど先生に見てもらった。
 うちはその頃、金田村から引っ越していた。世田谷区代田の貸家に移ったものの、家賃が払えなくなって経堂の東京農大の校舎に住み着いた。おやじの知り合いに農大の関係者がいて、空き教室を使わせてくれたからだ。相変わらず貧しかった。
 先日、悲しいことが起きた。中学時代からの親友の安生が4日の夜に亡くなったのだ。年末に体調を崩したと聞いて、毎日会いに行っていた。僕を音楽の世界に導いた恩人の一人は間違いなく安生だ。安生、ありがとう。でも急ぎすぎだぞ。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(7)音楽高校へ 猛烈レッスン 即座に雷 雑用に忙殺、十二指腸潰瘍に
 斎藤秀雄先生は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「はねあげ」など7つに分けていた。どの動きもいつ力を抜き、入れるかは厳密に決まっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなきゃいけない。
 「歩く時に坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?」と先生は言った。動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。変なやつと思われただろうが、周りの視線にも気付かないくらい集中していた。
 1952年、いよいよ桐朋学園の音楽高校に入学する。同期の男子は4人。頭が切れる村上綜(声楽)、まじめな林秀光(ピアノ)、スマートなホリデンこと堀伝(ただし)(バイオリン)、お山の大将の僕(指揮)、という顔ぶれだった。
 斎藤先生はめちゃくちゃ厳しかった。指揮のレッスンはピアノをオーケストラに見立てて行う。女の弟子の久山恵子さんのレッスンで、僕と直純さんが連弾した。練習が足りず、弾けないところは口三味線で「ララララ〜」なんて歌ってごまかしてたら、とうとう「バカにするな!」と雷が落ちた。
 あまりの剣幕(けんまく)に、2人して庭からお宅を飛び出し、近くの公衆トイレの陰に隠れたら、奥さんの秀子さんが僕らの靴を持って追いかけてきた。でもあのレッスンは後で役に立ったと思う。細かなニュアンスを弾き分け、オーケストラの音を想像する訓練になったからだ。バイオリンやチェロのピアノ伴奏もやれと言われて、ずいぶんやった。
 僕は目が回るほど忙しかった。先生に桐朋の学生オーケストラの雑用一切を任され、譜面台や楽器の手配、椅子並べ、パート譜の印刷、校正と次から次にやることがあったからだ。楽譜の間違いがあったり、譜面台が壊れてたりすると「小澤!」と怒鳴られた。
 見かねたホリデンが手伝ってくれることもあったが、仕事はいくらでもあった。帰る頃にはヘトヘトだ。ほかの生徒は楽器だけ練習していればいいのに、なんで僕ばかりこんなに大変なのか、と一時期は先生をうらんだものだ。
 指揮の勉強もあるし、休みなんてなかった。土曜日の午後には「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習がある。夏休みになれば北軽井沢で合宿だ。合宿所は地元の小学校。一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いて寝た。
 先生は子供にも容赦せず、怒鳴りつけては震え上がらせた。保護者も何も言えなかった。先生と生徒の間に立っていたのが桐朋の事務方の伊集院清三先生だ。よく生徒の味方になってくれた。怒られている僕に助け舟を出してくれたこともある。上品で優しい、本当の人格者だった。
 高校時代の僕はいつも忙しく、ひょろひょろに痩せていた。ある日、胃が痛くなって固いものが喉を通らなくなった。十二指腸潰瘍だった。斎藤先生の親戚(つまり僕の親戚でもあるが)の橋本寛敏院長がいる聖路加病院で看(み)てもらったところ、食事療法で治すことになった。主治医は菅原虎雄先生と日野原重明先生。完治できたのは、この先生たちのおかげだ。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(8)桐朋短大進学 米楽団の音にブッ飛ぶ 海外で勉強したい…でも留年
 高校3年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハの「シャコンヌ」を振ることになった。バイオリンの曲を、斎藤秀雄先生がオーケストラ用に編曲したものだ。十数分の曲を先生は半年かけて僕に教えた。
 バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも「一番音域が広いここが音楽の頂点で」というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでバイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を聴いた時、「シャコンヌ」が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。
 先生はそれだけ才能があったのに極端なあがり症だった。本番の演奏会で指揮する時は普段と全然違う。手が先走って「先入(せんにゅう)」という指揮法をやたらに使うのだ。何の気なしに「先生、今日は『先入』ばかりでしたね」と言ったら「そんなこと言うな!」とドヤされた。半年に一回くらいそれで怒られて、兄弟子の山本直純さんにあきれられた。
 話を戻そう。卒業公演の「シャコンヌ」は直純さんや岩城宏之さんも聴きに来て、終演後に「感動した」と言ってくれたのがうれしかった。卒業後は桐朋学園短期大学に進む。5月にアメリカのオーケストラ「シンフォニー・オブ・ジ・エア」が日本にやってきた。指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが率いていたNBC交響楽団の後継だ。
 斎藤先生に言われて、公開練習を聴きに行ったんだと思う。曲はブラームスの交響曲第1番だった。いきなりブッ飛んだ。日本のオーケストラとはまるで響きが違う。冒頭のティンパニの強烈な音は今も体に残っている。
 音楽やるなら外国へ行って勉強するしかない。心に決めた。同期の江戸京子ちゃんとか、桐朋の仲間たちは次々と留学していった。僕はいつも羽田空港で見送る方。相変わらず先生のかばん持ちとして雑用に追い立てられる毎日で、焦るような、もどかしいような気持ちが膨らんだ。
 そして迎えた卒業式。なぜか僕の名前が呼ばれない。あるはずの卒業証書もない。留年していた。単位が足りなかったのだ。しかも誰も教えてくれなかった。かわいそうに、張り切って着物で来たおふくろは泣きながら帰ってしまった。僕は謝恩会の幹事まで引き受けていたというのに。
 声楽の伊藤武雄先生が「いいんだ、卒業なんかしなくたって」と慰めてくれたが、そんなむちゃな話はない。また学費を払うのに、アルバイトしなきゃいけなかった。しばらく伊藤先生の紹介でアマチュアの三友合唱団を指揮した。あとは斎藤先生に言われて群馬交響楽団へ行き、初めてプロのオケを指揮したのが良い経験になった。
 翌年、とにかくヨーロッパへ行こうとフランス政府給費留学生の試験を受けた。僕と、桐朋オーケストラのフルートで弟分の加藤恕(ひろ)彦が最終審査に残った。語学ができて優秀な加藤が受かり、僕が落っこちた。
 羽田で見送るのはまた僕だった。パリ国立高等音楽院に入った加藤から届く手紙を読んではジリジリした。どうにか留学できないか八方手を尽くしたが、はかばかしい答えはないまま、時間だけが過ぎていった。
(指揮者)












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