salley gardens

   サリーガーデン                          
とびらのむこうは ゆめのじかん。。。

2歳のお子様から80歳の方まで、23年のレッスン経験の中で、いろいろな生徒さんにお会いしました。みなさん、それぞれに自分らしい進路、生き方を見つけ、しっかりと歩いていらっしゃいます。大好きなことを職業に!一生勉強できることを見つけよう!その応援をさせていただけたらと思います。



渋谷区、代々木公園、代々木八幡、代々木上原、参宮橋、初台、代々木、西原、元代々木町、大山町、松濤、神山町、
富ヶ谷、原宿、神宮前、幡ヶ谷、笹塚、中野、阿佐ヶ谷、新高円寺、方南町、つくば、土浦、福岡

幼児教室、桐朋、音楽教室、ピアノ教室、リトミック、ソルフェージュ、聴音、音感教育、わらべうた、
声楽、アイリッシュ民謡、ケルト民謡、賛美歌、聖歌、マザーグースの唄、子守唄、古楽、コーラス、
ボーイソプラノ、チェンバロ、スピネット(小型チェンバロ)、ピアノ、音大受験、音高受験、宝塚受験、
レース、クロシェレース、アイリッシュクロシェレース、編み物、クロシェ編み(かぎ針編み)、手芸教室
小澤征爾先生 私の履歴書21,22,23,24,25,26,27,28,29,30, 日経新聞
私の履歴書 小澤征爾 21-30
情報元 日本経済新聞

(私の履歴書)小澤征爾(21)妻・ヴェラ 音楽会に招いて親しく 喀血の報聞き、海を越え看病
 僕が習った斎藤秀雄先生はオペラを全くやらなかった。だから僕は一度も教わっていないし、オペラのオの字も知らなかった。それを見破ったのがヘルベルト・フォン・カラヤン先生だ。 「指揮者にとってオペラとシンフォニーは車の両輪」がカラヤン先生の持論。「モーツァルトは一生の半分はオペラを書いてる。プッチーニなんて95%だろう。ワーグナーだってそうだ。オペラをやらないのはとんでもないぞ」
 そう言って、先生がザルツブルク音楽祭でモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮する時、僕にアシスタントをやらせた。1968年の夏だった。
 翌年7月、僕はザルツブルクでモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を指揮し、オペラデビューする。当時の僕のキャリアからしたら信じられない大役だ。きっと反対する声もあっただろう。カラヤン先生が「おれの弟子だから大丈夫だ」と言ったのだと思う。
 初めてオペラを振る僕に助言をくれたのが、一昨日亡くなったクラウディオ・アバドだ。一緒に飯を食いながら、コツを教えてくれた。「歌い手と一緒に息を取ればいいんだ」。言葉も満足にできない僕に、しきりにそう言ってくれた。良い友達を失って本当に悲しい。
 妻のヴェラと再婚したのもその頃のことだ。出会ったのは僕がトロントから一時帰国していた時だった。ヴェラは当時、入江美樹という名の人気モデル。誰だか知らなかったけれど、友人に「今から入江さんの家のパーティーに行こう」と誘われて顔を出した。
 そこにいたのはモデル仲間やら俳優の岡田真澄さんやら着飾った美男美女ばかり。映画監督の勅使河原宏さんもいた。片や僕は首の部分に垢(あか)がこびりついたベージュ色のタートルネックのセーターを着ていて、場違いなことはなはだしい。
 さすがに居心地が悪くて2階でお酒を飲んでいると、ヴェラのロシア人のおやじさんがやって来た。べらんめえ調の日本語を話す人で、妙に気が合い、2人でずっと日本酒を飲んでいた。帰り際、僕が1週間後に指揮する日本フィルハーモニー交響楽団の音楽会のチケットをヴェラの家族に渡し、そこでなんとなく彼女とも言葉を交わした。
 ヴェラは実際に音楽会を聴きにきて、それから時々会うようになり、次第に親しくなった。その後、パリに行ったヴェラは知人のサロンで突然喀血(かっけつ)する。結核だった。トロントでその知らせを聞いた僕は仰天して駆けつけた。一晩だけ看病して、後のことはパリにいた友人の彫刻家、藤江孝さんに任せた。特効薬が効いて、1年ほどで無事快復した。
 68年9月、僕たちは駿河台のニコライ堂で結婚式を挙げる。仲人はデザイナーの森英恵さんご夫妻。あとは家族だけの静かな式だった。
 2年後、僕はタングルウッド音楽祭とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就いた。サンフランシスコの前任はヨーゼフ・クリップス。彼とは僕がニューヨーク・フィルの副指揮者をしていた時に知り合っている。僕を見込んで後任に推薦してくれたそうだ。トロントを離れ、アメリカでの生活が始まった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(22)責任感 父失い「もっとまじめに」 葬儀の当日、三島さんも逝く
 サンフランシスコ交響楽団の音楽監督就任披露公演の直前、おやじが71歳で急死した。心筋梗塞だった。息を引き取ったのは1970年11月21日。僕はボストン交響楽団を指揮する予定をキャンセルし、日本にすっ飛んだ。
 みっともない話だが、僕はずっとおやじに頼って生きてきた。音楽のことなんて全く分からない人だったが、何から何まで報告していた。
 僕がN響にボイコットされた時の言葉を今でも覚えている。「人殺しと盗みをしない限り、おまえは俺の息子だ。それ以外のことだったら何でもやれ。最後には俺が骨を拾ってやる」。川崎の家で冷たくなった体に触れた時、この先どう生きればいいか分からなくなった。
 葬儀は日本フィルハーモニー交響楽団の曙橋の練習場で執り行うことになった。だが当日、弔問客が全然到着しない。練習場の周りが騒がしく、道はひどい渋滞だ。近くの自衛隊市ケ谷駐屯地で三島由紀夫さんが自決していた。三島さんはN響事件の時に支援してくれた恩人。おやじの葬式の日に三島さんが死ぬなんて、こんなことがあるのかと思った。
 戦時中、おやじは政府の戦争指導を批判し続けた。立川の家には連日、特高課長が来たが堂々と持論を話していた。葬式の直後、おふくろ宛てに一通の手紙が届く。差出人はまさにその特高課長。「ご主人こそ真の愛国者でした。ご冥福をお祈りします」。読んだおふくろは泣いていた。
 おやじが死んだ後、僕の指揮は変わったと言われる。「もっとまじめにやらないといけない」と心を入れ替えたのは事実だ。71年に娘の征良(せいら)、74年に息子の征悦(ゆきよし)が生まれて責任はさらに重くなった。
 N響での経験のせいかもしれない。指揮者なんていつどうなるか分からないという不安が常にあった。思い余って、子供たちのために他の仕事を探そうとしたこともある。
 実際の状況は悪くなかった。サンフランシスコの音楽監督に就任した後、ボストン響からも音楽監督の話が舞い込む。だが最初は断っていた。あのジョージ・セルがクリーヴランド管弦楽団を鍛えたように、サンフランシスコ響を超一流のオーケストラにしたかったからだ。
 サンフランシスコ響に就任をOKした時、先方のマネージャーのハワード・スキナーはビルの屋上に駆け上がって「ブラボー!」と叫んだらしい。それくらい期待されているのに、辞めてボストンに移ることはしたくない。
 ボストン響の理事会長、タルコット・バンクスとマネージャーのトッド・ペリー(黒船のペリーの子孫だ)が改めて依頼にきた。悩んだ結果、両方やることにした。むちゃな話なのだが、サンフランシスコの後任マネージャーのスカフィーディやビル・バーネル、ヴィクター・ウォンらは「俺たちも協力するから、何とかやってみよう」と支持してくれた。
 ボストン響の就任は73年9月。38歳になったばかりだった。それからは家族がいるサンフランシスコとボストンを往復する日々。移動はたいてい深夜便の飛行機だ。3年もそんな生活を続けていたら血圧がぼーんと上がって、心肥大になった。76年、僕はサンフランシスコの任期を終え、ボストンに専念する。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(23)日フィル解散 楽員スト 説得も実らず 「復活」に奔走、TVで裾野拡大
 日本の音楽界に居場所がなかった僕に、フジテレビ社長の水野成夫さんが「日本フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者をやれ」と言ってきた時はすごくうれしかった。日フィルは水野さんが作ったオーケストラ。親会社はフジと文化放送だった。1968年9月に就任し、シカゴのラヴィニア音楽祭とトロント交響楽団の仕事と並行して日本でも定期的に指揮した。
 あれは僕が日本にいない時だった。71年、日フィルの楽員たちが待遇の向上を求めて親会社と衝突し、12月にストライキを起こす。日本のオーケストラで初のストだった。
 事態は収まらず、水野さんの後を受けてフジの社長になった鹿内信隆さんら経営陣は翌年5月、日フィルの解散を決める。慌てて帰国した頃にはもう、取り返しのつかない状況になっていた。
 日フィルを創設時から支えていた山本直純さんと、文化放送社長の友田信さんに会いに行った。「細々とでも続けてほしい」「せめて練習場は継続して使わせてほしい」。頼み込んだが、ダメだった。
 一方、楽員の多くも戦う姿勢を崩さない。「音楽なんてケンカするためにやるもんじゃない」と説得したが聞き入れられなかった。
 6月、焦った僕はとんでもないことをしてしまう。日本芸術院賞の授賞式で天皇陛下に「自分だけ賞をもらったけど、今一緒にやっている日フィルは大変なんです」と思わず言ってしまったのだ。その日は風邪で朝から目が腫れ、みっともないからサングラスをかけていた。怪しげな僕の写真が新聞に載り、脅迫めいた手紙が届くようになった。
 生まれたばかりの娘・征良のことが心配で、赤坂のホテルに住んだ。この時に「俺が何とかしてやる」と言ってくれたのが日本船舶振興会の笹川良一会長だ。全日本空手道連盟会長でもあった笹川さんの手配で、僕の音楽会には一時期、空手の強者たちが客席の一番前にずらっと座っていた。ちょっと恥ずかしかったが、ありがたかった。
 結局、日フィルは6月に解散する。最後の定期演奏会で僕はマーラーの交響曲第2番「復活」を指揮した。シカゴ交響楽団のトランペットのアドルフ・ハーセス、ホルンのデール・クレベンジャーがゲストで吹き、「こんな素晴らしいオーケストラはない」とべた褒めしてくれた。それほど力のこもった演奏だった。
 解散後、直純さんと僕で作ったのが新日本フィルハーモニー交響楽団だ。旧日フィルの楽員の約3分の1が加わった。設立後すぐ、直純さんはテレビマンユニオンのプロデューサー、萩元晴彦さんと音楽番組「オーケストラがやって来た」を始める。番組内での演奏はもちろん新日フィル。
 僕は120%協力するつもりで、可能な限り出演し、親しい外国の音楽家にも積極的に出てもらった。バイオリンのアイザック・スターン、イツァーク・パールマン、ピアノのルドルフ・ゼルキン、ピーター・ゼルキンたちだ。みんな快く出演してくれた。
 直純さんは常々僕に言っていた。「山の底辺は俺がやるから、お前は頂点を目指せ」。その言葉通り、クラシック音楽を分かりやすい言葉で裾野まで広めようとしたのがこの番組だと思う。番組は11年にわたって続いた。直純さんの素晴らしい功績だ。(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(24)斎藤先生逝く 「音楽家とは」一生の教え 弟子が集結、すごい音に興奮
 「小澤よう、俺、胃がいてぇんだよな」。斎藤秀雄先生がそう漏らしたのは1973年の暮れだった。桐朋オーケストラの演奏旅行で神戸に行き、ホテルで一緒に朝食を取っている時だ。「先生、だったらすぐ病院に行かないと」。「おう、行く行く」。そんなやりとりがあってしばらくした後、先生は聖路加病院でただちに入院を言い渡される。大腸がんだった。
 アメリカに戻っていた僕が翌年9月に帰国し急いで病院へ行くと、元もと痩せている体がさらに細くなっていた。体中痛そうで話もままならない。僕はボストンへ発(た)つ予定をギリギリまで延ばし、山本直純さんと病室に詰めた。
 「おまえ、ボストンに帰らなきゃいけないのか」。最初の3日間ほどは顔を合わせる度に聞かれ、「大丈夫です」と答えていた。が、もう会話もできなくなる。痛みに苦しむ様子を見ていて、食事が喉を通らなくなった。
 17日深夜、兄弟弟子の秋山和慶が駆けつけた。長く先生のそばにいた秋山の顔を見て安心したのか、すぐ後に息を引き取る。72歳だった。
 亡くなる直前の8月、先生は無理をして桐朋恒例の夏合宿に行っている。最後の晩、車いすに座って、ほとんど動かない手で指揮したのがモーツァルトの「ディヴェルティメント(嬉(き)遊(ゆう)曲)K136」だ。僕は行けなかったが、録音したテープを後で聴いた。本来は明るく軽快な曲なのに、ゆっくりしたテンポで静かに進んでいる。涙が止まらなくなった。
 「おまえ、横に振れるようになったな」。先生に言われたことがあった。亡くなる前の数年間、先生もまさに横に振るようになっていた。技術だけじゃない音楽の何か、があった。いつか先生にそう伝えた時、「おまえに言われるようじゃ俺もおしまいだな」なんて言われたけど。
 先生が指揮法を体系化したことや、演奏技術について細かく言ったことで「斎藤秀雄の教え方は機械的だ」と批判する人が時々いる。でもそれは全然違う。
 先生が僕らに教え込んだのは音楽をやる気持ちそのものだ。作曲家の意図を一音一音の中からつかみだし、現実の音にする。そのために命だって賭ける。音楽家にとって最後、一番大事なことを生涯かけて教えたのだ。
 先生が亡くなった10年後、僕はそのことを確信する。84年9月、僕と秋山の呼びかけで弟子が集まり、「斎藤秀雄メモリアル・コンサート」を大阪と東京で開いた。
 奏者はバイオリンの潮田益子、安芸晶子、渡辺實和子ら「斎藤共通語」で育った仲間ばかり。練習で「嬉遊曲K136」の第2楽章を合わせた時、そこに斎藤先生が立っている、と思った。しかも今やみんなオーケストラ奏者やソリストとして活躍している。10年前よりすごい音が出た。この「K136」は僕にとって、折に触れ、大事な時に振る曲だ。
 初日の公演の後。日本での僕のマネージャー、平佐素雄君とアメリカにいるマネージャーのロナルド・ウィルフォードに電話し、興奮を伝えた。「そんなにすごいなら日本以外でもやろう」。87年、僕たちはヨーロッパを演奏して回る。「サイトウ・キネン・オーケストラ」の始まりだ。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(25)サイトウ・キネン 松本での音楽祭、幕開け 演奏旅行で成功、日本に拠点
 1987年9月、サイトウ・キネン・オーケストラの初のヨーロッパ演奏旅行が始まった。回ったのはベルリン、ロンドン、パリなど6都市。ウィーンのコンツェルトハウスでの公演の後には、ウィーン楽友協会の人が来て「次はうちに来てほしい」と言われた。反応は上々だった。
 せっかくのオーケストラをこのまま終わりにしたくない。初回の演奏旅行はNECが主にスポンサーになってくれた。この先、どこか支援してくれる企業はないだろうか。そう思っていた時、弟のポンが旧知のセイコーエプソン社員、武井勇二さんに僕の気持ちを伝えたらしい。
 64年1月、僕は中学時代の担任の今井信雄先生に言われてアマチュアの諏訪交響楽団を指揮したことがあった。その時にバイオリンを弾いていたのが武井さんだ。後日には上司の技術部長と訪ねてこられ、セイコー製の高級時計を下さった。以来、武井さんはポンとも親しくなっていた。
 僕の希望を知った武井さんは早速、中村恒也社長に掛け合う。その中村さんこそ時計の贈り主の技術部長で、一晩考えた末に3年間の支援を決めてくれた。89年から91年にかけて僕らはヨーロッパとアメリカを回る。90年にはサイトウ・キネンのメンバーを中核にした水戸室内管弦楽団も発足した。同年に発足した水戸芸術館の専属で、館長は吉田秀和先生だった。
 このまま毎年サイトウ・キネンで外国を回ればいい、と思っていたがマネージャーのロナルド・ウィルフォードは「日本で腰を据えてやるべきだ」と主張した。正直に言って、僕はN響にボイコットされてから日本に住んで仕事するつもりはなかった。そんな様子を見て心配していたらしい。「音楽祭の開催地を募れば絶対に手を挙げるところがある」と僕の背中を押した。
 だが場所探しは難航した。良いホールがあり、音楽を聴く環境が整っている街がなかなかない。そんな折、長野県松本市で県立文化会館を建設中という噂が耳に入った。こっそり見にいくと、とても素晴らしい。吉村午良(ごろう)県知事と松本市の和合正治市長を訪ねて音楽祭の開催を申し入れると、喜んで応じてくれた。セイコーエプソン、キッセイ薬品工業、八十二銀行、アルピコグループ、信濃毎日新聞社など地元企業の協力も得られた。事務局長は武井さんだ。
 92年9月5日。「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」が幕を開けた。初日は武満徹さん作曲の「セレモニアル」の世界初演。翌日はストラヴィンスキーのオペラ「エディプス王」を上演した。僕の盟友でソプラノのジェシー・ノーマンが出てくれた。プロデューサーは今やメトロポリタン歌劇場の総裁になったピーター・ゲルブだ。
 「エディプス王」は僕が78年にパリ・オペラ座デビューした時に振って成功している。自信はあった。が、周囲は「お客さんが入らない」と大反対。公演は1回にしましょうと説得されたが頼み込んで2回にしてもらった。蓋を開けてみたらチケットはあっという間に売り切れ。手応えを感じた。
 斎藤秀雄先生がまいた西洋音楽の種を育て、日本に根付かせる。僕の生涯の仕事が始まった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(26)キャラバン出発 生の音楽 小さな村にも 演奏が心に届く喜び教わる
 僕の兄貴分というべき人がいる。2007年に亡くなったロシア人チェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチだ。僕にとっては愛称の「スラヴァ」と呼んだ方がしっくりくる。
 1967年、トロント交響楽団で共演したのが付き合いの始まりだった。彼が「生の音楽が聴けないような過疎の町で演奏しよう」と持ちかけてきたのは80年代のこと。行き先はスペインやシベリアだという。スラヴァは若い頃、アコーディオン奏者の友人とシベリアの各地で演奏したことがあったそうだ。
 「絶対、音楽家になった喜びを味わえるから」と口説かれたが、忙しくてそんな暇はない。断っていたら「日本でやろう」と言い出した。
 だったらやってみるか、と桐朋学園高校の生徒や若いOBを集めて十数人の弦楽アンサンブルを作った。行き先はどうするか。スラヴァは親交のあった当時の皇太子妃・美智子様に相談し、岐阜県白川郷に工房を構えるパイプオルガン製作者の辻宏先生を紹介された。最初の拠点は白川郷に決まった。
 荷台がステージになるトラックを手配し、出発したのが89年8月。第1回の「コンサート・キャラバン」だ。初日は辻先生の工房で深夜まで練習した。遠足気分が抜けなかった若者たちもすぐ集中するようになった。何せスラヴァにみっちりしごかれるのだ。
 翌日からはトラックでお寺や神社の境内、小学校などへ行き、朝、昼、晩と演奏して回った。もちろん入場無料。お客さんは多い時で千人だが、数人の時もあった。
 全身全霊で演奏すると、子供からお年寄りまで、生の音楽に触れるのが初めてという人も熱心に耳を傾けてくれる。中には一人で来て、じっと聴きながら泣く人もいた。「なるほど、これが『音楽家になった喜び』か」と感じた。
 夜はお寺や神社の大広間で雑魚寝。入りきれない学生は村の人たちの家に泊めてもらった。岐阜の後は長野県飯田市、大鹿村、下諏訪町などを回り、最後は諏訪市のセイコーエプソンの体育館へ。1週間のキャラバンが終わる頃には病みつきになっていた。
 音楽になじみのない人たちに向けて演奏する。これは今や僕の大事な活動の一つだ。第1回のキャラバンの少し前からは長野県志賀高原の山ノ内中学校で毎年、小さな音楽会を開いている。
 30年程前に奥志賀高原にスキーのための山小屋を建てた僕は、地元の山男たちの親睦会「常(じょう)会」の人たちやスキー学校の校長で元五輪選手の杉山進さんと親しくなった。音楽会は「子供たちに生のオーケストラを聴かせよう」との話から始まったものだ。
 真剣に演奏すれば必ず相手の心に届く。キャラバンの体験から得た僕の信念だ。キャラバンはその後、93年に新潟へ。2002年と05年には、先日亡くなった盛岡大学の大矢邦宣教授が取りまとめ役になって盛岡市や一関市、宮古市、大槌町など岩手県各地を回った。
 悲しいことに岩手は3年前、東日本大震災で津波の被害に遭った。学生を泊めてくれたホストファミリーで亡くなった方もいる。僕は体の調子が悪かったせいで行けずにいたが、絶対にまた訪ねるつもりだ。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(27)スラヴァの説得 N響で32年ぶりタクト 昔からの友人も病押し出演
 1992年に始まった「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」は地元の人に愛される音楽祭にしたかった。幸い、松本市の有賀正市長も同じ考え。市の教育委員会の中に国際音楽祭推進室が置かれた。ここに坪田明男さん、高橋慈夫さん、赤廣三郎さん、宮島吉秀さんが居たおかげで、最初から松本の小学校、中学校と関係を深められた。
 僕らが小中学生のために開く音楽会には何台ものバスが次々やってくる。壮観だった。
 サイトウ・キネンが始まってしばらくした頃、スラヴァ(チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)から突然言われた。「一緒にN響の音楽会に出よう」。冗談じゃない。N響にボイコットされて以来、建物に近づくのも嫌だった。けれどスラヴァはなおも説得する。
 「おまえは今、日本でサイトウ・キネンをやっているだろう? なのにいつまでもN響とけんかしたままじゃだめだ」。確かに一理ある。スラヴァの言う通りかもしれない。渋々OKした。
 95年1月23日、サントリーホールで僕は32年ぶりにN響を指揮した。企画を進めたのは友人の森千二さん。病気やケガで演奏できなくなったオーケストラの楽員のために基金を作る演奏会だった。曲はスラヴァとのドヴォルザークのチェロ協奏曲など。起きたばかりの阪神大震災の犠牲者を追悼するためのバッハ「G線上のアリア」、スラヴァによる「サラバンド」もあった。
 チェロの首席奏者は今は亡き徳永兼一郎。斎藤秀雄先生の弟子で、昔からの親しい仲間だ。がんを患い、もう演奏会には出ていなかったのに「小澤さんが指揮するなら」と一時退院して弾いてくれた。N響で指揮することなんて二度とないと思っていたけど、行ってみたら楽しくやれた。オーケストラの演奏も素晴らしかった。
 アメリカではボストン交響楽団の音楽監督を続けていた。94年にはソニー最高経営責任者(CEO)の大賀典雄さんやNECの援助で夏の本拠地、タングルウッドに「セイジ・オザワ・ホール」が建てられる。
 就任から早20年以上たっていた。いつしか「30年になったら辞めて、後は半分引退しよう」と思うようになった。子供たちの教育のために家族を日本に帰して以来、僕はずっと単身赴任。ボストンを辞めたら日本に帰って家族と静かに暮らすつもりだった。
 99年、意外な話が持ち上がる。ウィーン国立歌劇場の音楽監督の就任を依頼されたのだ。まさか、と思った。世界には歌劇場向きの指揮者がいっぱいいる。僕はそういう指揮者に比べれば歌劇場で指揮した経験はさほど多くないし、一番縁遠いと思っていた。
 妻のヴェラが反対するなら断る気だった。だが相談したら「征爾がオペラをやりたいんだったらいいんじゃない?」。ボストンでも新日フィルでも、オペラを上演する時は毎回大変な思いをしていた。演出家や舞台美術家を選び、一から作り上げなきゃいけない。その苦労をよく知っていたのだろう。
 ヴェラの言葉で引き受けることに決めた。2002年、僕はボストンを辞め、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任する。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(28)ボストン響 理想追い、曲折の29年間 時に反目、洗練と重みに磨き
2002年、僕はボストン交響楽団の音楽監督を離れた。就任から29年。アメリカのオーケストラの音楽監督として最も長い在籍期間だ。
 僕が着任した時のボストン響は、どちらかと言えばきれいで色彩豊かな音を出していた。かつての音楽監督シャルル・ミュンシュやよく客演していたピエール・モントゥーらフランス人指揮者の影響だろう。その代わり、ドイツ的な重みのある音楽はあまり得意じゃなかったように思う。
 僕自身はドイツ系の音楽もしっかりやりたい。例えばブラームス、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー。あるいはやはり重みが必要なチャイコフスキーやドヴォルザークもやりたかった。
 重くて暗い音が出るように、弦楽器は弓に圧力をかけて芯まで鳴らす弾き方に変えた。だけど僕が就任した時のコンサートマスターのジョセフ・シルヴァースタインはそういう音を嫌がり、途中で辞めてしまう。才能豊かで僕とも親しかった。その後、彼は指揮者となり成功している。
 時間をかけて、ボストン響はドイツの音楽もちゃんと鳴らせるようになった。それでいてベルリオーズの「幻想交響曲」といったフランス物も素晴らしい演奏ができる。フランスの洗練とドイツの重み、両面を持つ良いオーケストラになった。
 一度だけ辞任を考えたことがある。タングルウッド音楽祭の講習会を改革した時だ。40年に当時の音楽監督セルゲイ・クーセヴィツキーが創設した際はボストン響の楽員が講師だった。なのに私的なつながりでポストが占められるようになり、僕の時代には一層ひどくなった。教える能力より人間関係が優先された。
 97年、思い切って講師を全員辞めさせ、ボストン響の楽員を代わりに選んだ。僕の決断を「ニューヨーク・タイムズ」は痛烈に批判した。「失敗したら音楽監督は辞めるべきだな」と覚悟を決めた。
 この時、「セイジが正しい」とボストン響の理事たちを説得に来てくれたのが、バイオリンのアイザック・スターン、イツァーク・パールマン、チェロのヨーヨー・マ、ピアノのピーター・ゼルキンらだ。ほとんどの理事と楽員の支持も得られた。
 在任中、僕は楽員の待遇をいつも気にかけていた。根底には日フィル分裂時の苦い教訓がある。ストライキだけは絶対に避けたかった。理事長のネルソン・ダーリンに頼み、楽員の給料を上げてもらった。オーケストラとしては珍しく、彼は遺族年金の制度まで作ってくれた。
 2002年4月、僕は音楽監督として最後の定期音楽会を指揮した。曲はマーラーの交響曲第9番。一音一音に気がこもり、大きなうねりを作り出す。あんなにすごい演奏をされたら指揮者は参るしかない。
 ボストンでは1960年来応援している地元の野球チーム、レッドソックスの試合を観に、暇を見つけては球場へ通った。定位置はダグアウトのそば。ウィーンに移った後はインターネットで観戦した。昨年のワールドシリーズは居てもたってもいられず、アメリカまで行った。見事制覇した時の喜びと言ったら、全くもう。デヴィッド・オルティーズ、ダスティン・ペドロイア、上原浩治、田沢純一には心底しびれた。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(29)ウィーン歌劇場 長年の宿題 オペラ漬け 若手育成へ音楽塾立ち上げ
ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就き、オペラ漬けの日々が始まった。オペラのけいこは普通、長くて2週間くらい。だがウィーンでは新演出のオペラだと6週間もやる。
 最初のうちはオーケストラが入らないから指揮者は行かなくてもいいが、僕は近くに住んでいる。暇があれば顔を出した。演出家がどうやって作品を組み立てていくか、よく分かった。歌劇場内にはほかにもいくつか練習場があり、歌手がけいこしている。一日中のぞいて回った。
 オペラ専門の指揮者がいることも分かった。歌い手と2日くらい合わせただけで、オーケストラとの練習なしにいきなり本番を迎えるのだ。面白かったし、勉強になった。
 「あそこは海千山千だから行ったら殺されるぞ」。ウィーンの音楽監督に決まってからさんざん脅されたが、気にしなかった。僕が鈍感で能天気なのかもしれないけれど。
 僕はいわゆる公式の晩餐(ばんさん)会やパーティーには出ない。昔からそうで、ボストン響でもウィーンでも、数えるほどしか出席していない。理由はもちろん「言葉ができないから」だが、接触が少なくなる分、無用なトラブルを避けられたのかもしれない。
 ウィーンでは就任してすぐ子供のための音楽会を始めた。イオアン・ホーレンダー総裁がサイトウ・キネン・フェスティバル松本で小・中学生向けの音楽会を見て「ぜひウィーンでもやりたい」と言ったのが始まりだ。国立歌劇場に1日7000人の子供を集めて「魔笛」を上演した。これは今も続いている。
 この時代、僕はどんどんオペラにのめり込んだ。日本では若い音楽家がオペラを弾いて勉強する機会が少ないと気づき、教えたいとも思うようになった。
 僕が信頼する奏者が指導し、一流の歌手を呼んでオペラを上演する。歌や芝居をじかに感じてもらう。その考えにロームの佐藤研一郎社長が賛同して2000年、一緒に「小澤征爾音楽塾オペラ・プロジェクト」を立ち上げてくれた。以来、「ドン・ジョヴァンニ」「蝶々夫人」など10作のオペラを上演してきた。
 この音楽塾のオーケストラは今、サイトウ・キネン・フェスティバルでも大活躍している。日本に限らず、中国や台湾の若い演奏家も加わるようになった。
 今年は3月に音楽塾で「フィガロの結婚」を上演する。演出はメトロポリタン歌劇場のデヴィッド・ニース。僕と同歌劇場の指揮者テッド・テイラーで振り分ける趣向だ。音楽塾でオペラを指揮するのは5年ぶり。今から楽しみだ。
 「指揮者にとってオペラとシンフォニーは車の両輪」。40年以上前、ヘルベルト・フォン・カラヤン先生が言った通りだった。息の長い話だけれど、ずいぶん時間がかかってそこまでたどりついた。今では指揮者を見てオペラ向きか、そうでないかすぐ分かる。
 ウィーンでの僕の任期は07年8月まで5年の予定だったが、ホーレンダーから言われて3年延長した。だが06年1月に帯状疱疹(ほうしん)にかかった時やがんが見つかった時は、仕事をキャンセルしなきゃいけなくなった。残念だったが、ここは一度体を立て直すことに専念しようと決心した。
(指揮者)


小澤征爾(30)これから 音楽の追求こそ恩返し 意欲・楽しさ、療養経て一段と
 今月17.19日、僕は水戸芸術館で水戸室内管弦楽団を指揮した。曲はベートーヴェンの交響曲第4番。亡くなった吉田秀和先生の後を受けて、僕が館長になってから初めての定期演奏会だ。交響曲の指揮は2年ぶり。緊張で眠れない夜もあったが、オーケストラが素晴らしい演奏で見事に応えてくれた。
 病気でしばらく休んでいたから、今は一回一回の音楽会に「指揮したい」という気持ちが強くこもる。喜びの密度が前とは違う。
 時間がある分、事前の勉強にもじっくり取り組めている。毎日1時間半くらいかけて、4小節や8小節ずつ勉強する。終わりに近づくと名残惜しくて「明日も同じところをやろうかな」と思う。本当に楽しい。自分で言うのも変だけど、それだけ時間をかけて準備すると耳の精度が上がる気がする。
 振り返ってみて、僕は本当に幸運だった。多くの師に恵まれて経験を重ねられた。僕が学んだことを若い音楽家に伝えようと、この15年程は教育にかなり力を入れている。
 3月にはオペラ教育のプロジェクト「小澤征爾音楽塾」が控えている。6月はスイスの「小澤征爾スイス国際音楽アカデミー」、7月は長野・奥志賀の「小澤国際室内楽アカデミー奥志賀」で弦楽四重奏を教える。講師陣は僕が信頼する弦楽器奏者ばかり。スイスはロバート・マン、パメラ・フランク、今井信子、原田禎夫、奥志賀は川本嘉子、川崎洋介たちだ。
 8月になればまたサイトウ・キネン・フェスティバル松本がある。僕が指揮するのはベルリオーズの「幻想交響曲」など3曲。来年は、上演機会の少ないベルリオーズのオペラ「ベアトリスとベネディクト」を振るつもりだ。
 サイトウ・キネン・オーケストラを指揮して気付いたことがある。弦楽器がブンブン鳴るのだ。当初からそうだった。弦の厚みがあるから管楽器も遠慮せず吹ける。ブラームスを演奏する時なんか、とても熱い演奏になる。
 斎藤秀雄先生に教わった人の特徴かと思ったらそうでもない。後から加わった人も同じように演奏する。先生の教えが受け継がれ、オーケストラの色になっている。
 中国に生まれ、日本に育った僕がどこまで西洋音楽を理解できるか。一生かけて実験を続けるつもりだ。幸い、昨年には食道がんから「無事卒業」というお墨付きを主治医の先生からいただいた。今後も音楽を追求し、次の世代を育てることが僕の使命だ。それがお世話になった人たちへの恩返しにもなると信じて。
 この連載もついに終わりだ。書ききれなかった話もあるし、紹介できなかった恩人もいる。お世話になったのに触れられなかった方々は「また征爾がへましてる」と思ってどうか許してほしい。
 最後にいつも支えてくれる家族に感謝を伝えたい。外で勝手に音楽ばかりしているおやじだったのに、大病したら家族全員でタッグを組んで助けてくれた。娘の征良がチーフで、妻のヴェラと息子の征悦が全力で協力してくれた。すごい。感謝あるのみだ。読者の皆さんにもお礼を言いたい。読んで下さってどうもありがとう。
(指揮者)
=おわり
| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 08:19 | - | - |
小澤征爾先生 私の履歴書17,18,19,20 日経新聞



(私の履歴書)小澤征爾(17)演奏拒否 N響と決裂 日本に別れ 無人の会場に独り、悔し泣き
 僕をN響の指揮者に起用したのはNHKのプロデューサー、細野達也さんだったと思う。N響の放送録音の仕事を一緒にしたこともあった。細野さんが推薦しなければ、バーンスタインの副指揮者をしただけの僕をN響の幹部が指名するはずがない。
 契約は1962年6月から半年間。7月にはメシアン作曲の「トゥランガリラ交響曲」を日本初演した。メシアン自身も立ち会って練習はみっちりした。初演は成功したと言っていいだろう。
 10月になって僕らは東南アジアへ2週間の演奏旅行に出かけた。フィリピンでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏した時。現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、僕はうっかり指揮棒を上げてしまった。オーケストラが楽器を構えた。だがカデンツァはまだ続いている。僕のミスだった。終演後、先輩の楽員さんに「おまえやめてくれよ、みっともないから」とクソミソに言われて「申し訳ありません」と平謝りするしかなかった。
 僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。
 ニューヨーク・フィルの偉い人が日本に来て、赤坂のナイトクラブに呼ばれたことがあった。音楽会の前日だった。だが、お世話になった人の誘いを断るのも気が引ける。行ったらN響の人たちにバレて気まずい思いをした。
 そんなことが積もりに積もって、練習もうまくいかないほど険悪な雰囲気になっていた。「N響の幹部がしゃぶしゃぶ屋で話し合っているようだ」。細野さんからそう聞いて、嫌な予感がした。
 11月の定期演奏会が終わった夜、N響の演奏委員会が「今後小澤氏の指揮する演奏会、録音演奏には、一切協力しない」と表明する。それが新聞に報じられ、僕はマスコミに追われるようになった。世間の顰蹙(ひんしゅく)を買い、電車に乗っていても変な目で見られた。
 事態を収拾するため、細野さんに「病気になったことにして、12月の定期演奏会はキャンセルすればいい」と言われた。でも嘘をつくのもおかしな話だ。僕は今後の演奏を保証してもらうための覚書をNHKの会長宛に送ったが、受け入れられず、12月の定期は中止と伝えられた。だが演奏会当日、僕は弟のポンの車に乗って会場の東京文化会館へ向かった。楽屋口は記者で騒然としていたが、舞台にも客席にも人はいなかった。
 この騒動で、精神的にめちゃくちゃにやられた。泣いたし、悔しかった。年が明けた1月15日、僕を応援してくれる人たちが日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」を開いた。発起人は今でも信じられない面々だ。浅利慶太さん、石原慎太郎さん、一柳慧さん、井上靖さん、大江健三郎さん、武満徹さん、團伊玖磨さん、中島健蔵さん、黛敏郎さん、三島由紀夫さんたち。音楽に関係のない人も大勢いた。演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。ヨーロッパ行きでお世話になった水野成夫さんが作ったオケだ。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない。
 この後僕は再びアメリカへ旅立った。吉田秀和先生たちの仲介でN響とは和解が成立したが、もう日本に戻るつもりはなかった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(18)ラヴィニア音楽祭 突然の代役務め監督に 団員の「祝福」、批評吹き飛ばす
 N響とのトラブルの後、ニューヨークに戻った僕は契約したばかりのマネージャー、ロナルド・ウィルフォードにきっぱり言った。「オレ、もう日本になんか帰らないよ」。けれどアメリカにいたって仕事はない。ただ時間が過ぎるばかりだった。
 半年ほどたった1963年7月のある日、ウィルフォードから「すぐ来い」と電話がかかってきた。カーネギーホールの前にある事務所に行くと、シカゴのラヴィニア音楽祭の会長、アール・ラドキンがいた。音楽祭でシカゴ交響楽団を振る予定だったジョルジュ・プレートルが肩を痛めたので、代わりに指揮をしろという。本番は数日後だ。
 「ほかに誰もいないから、しょうがない」。英語はよく分からなかったが、ラドキンがそう話しているのは理解できた。プレートルの降板が決まり、困ったラドキンはウィルフォードに代役の手配を頼んだらしい。ところが推薦されたのはオザワという無名の日本人。「日本人なんてやめてくれ」と何度も断ったが、ウィルフォードは引き下がらない。それで仕方なく承知した、そんな様子だった。
 事情は何であれ、とにかく時間がない。2日後にはシカゴで練習が始まるのだ。曲目はグリーグのピアノ協奏曲、ドヴォルザークの「新世界より」、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲など。だけど楽譜がない。レニー(レナード)・バーンスタインのスタジオに駆け込んだ。不在のレニーに代わって秘書のヘレンに鍵を開けてもらい、楽譜棚から借りてしゃかりきになって勉強した。
 ラヴィニアで何とか無事に2回の音楽会を終えた後、盛大なパーティーが開かれた。ラドキンが笑顔で何やら話しかけてくる。「君にこの音楽祭をあげよう」。そう言ったらしい。が、英語が聞き取れないのでよく確かめずにいた。
 その後、オランダの音楽祭で指揮している時(レニーがくれた仕事だ)、ウィルフォードから電話がかかってきた。「何をしてるんだ? ラドキンが君をラヴィニアの音楽監督にすると言ったらしいじゃないか。記者発表があるから、すぐ戻って来い」。パーティーでそう言われていたのに、分かっていなかったのだ。情けない。
 ともあれ僕は翌64年6月、ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任した。最初の年は指揮するたび、地元の有力紙「シカゴ・トリビューン」が僕のことを徹底的にやっつけた。
 「ラドキンはどうしてこんなのを雇ったのか」「シカゴ響のような偉大なオーケストラがなぜこんな指揮者の下で演奏しなければならないのか」。中には人種差別めいた批評もあって、頭に来た。
 その夏の最後の音楽会。演奏が終わり、舞台袖に下がった後、客席からの拍手で呼び戻された。舞台に出ていくと、トロンボーンも、ティンパニも、トランペットも、弦楽器もてんでばらばら、めちゃくちゃな音を鳴らし始める。何が何だか分からない。「シャワー」といって、僕への祝福だった。
 「シカゴ・トリビューン」への抗議を込めたものらしい、と後で分かった。オーケストラが精いっぱい僕に味方してくれたのだ。「シャワー」を経験したのは生涯で後にも先にもこの1度きりだ。その年から69年まで、僕は毎夏ラヴィニアで指揮することになる。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(19)トロント響 曲目や人事…多くを学ぶ 父を招待、頼み事に面食らう
 1965年9月、トロント交響楽団の音楽監督に就任した。僕がラヴィニア音楽祭で指揮するのを聴いたトロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーが僕のマネージャー、ロナルド・ウィルフォードに打診したのだ。
 だが障害があった。どうやらレニー(レナード)・バーンスタインが反対しているらしい。「一緒に説得しよう」と言うウィルフォードと一緒にレニーの家へ行くと、やはりいい顔はしていない。
 「セイジはニューヨークに居て、良いオーケストラだけ指揮するべきだ」という。その頃のトロント響は今ほど有名じゃなかった。「いや、今の僕にはレパートリーを作ることが必要なんだ」。僕には全然レパートリーが足りない。マーラーの交響曲全曲演奏もやってみたい。必死で頼んで、渋々OKしてもらえた。
 トロント響での経験は思った以上に役立った。音楽監督はただ指揮するだけじゃなくて曲や客演指揮者の選定、人事までやる。楽員を辞めさせることだってある。オーケストラがどういうものだか分かって、すごく勉強になった。
 しばらくして、おやじとおふくろをトロントに招待したら、出発前におやじがとんでもないことを言い出した。「ベトナム戦争はやめさせねばならん。二度と東洋人同士を戦わせてはいかん。アメリカにも行って、一番話が通じそうなロバート・ケネディに俺の意見を伝えたい」。相手は元アメリカ大統領、故ジョン・F・ケネディの弟で上院議員だ。会おうにもツテがない。
 結局、僕の友人の浅利慶太さんが中曽根康弘さんを紹介してくれた。目黒の雅叙園で中曽根さん、浅利さん、僕とおやじで会い、中曽根さんに紹介状を書いてもらった。
 ケネディとワシントンで会う前の夜。僕たちが泊まっているホテルに先方の通訳の男性が来た。日本語がペラペラで、サンフランシスコ講和会議でも公式通訳を務めたという。その夜はホテルで酒を飲みながら、2時間ほどかけておやじの意見を聞いてくれた。おかげで実際にロバート・ケネディに会った時にはすんなり話が運んだ。
 おやじの主張は「日中戦争の経緯に照らしても、民衆を敵にしてしまったこの戦争は勝てない。アメリカは武力で勝とうとするのではなくて、発電や土木の技術とか、文明の面で優れているところを共産主義国に見せるべきだ」というものだった。15分か20分の約束だったのをケネディが倍くらいに延ばして、じっくり話を聞いてくれたのでおやじは大喜びだった。
 トロントでの仕事はまずまずだったが、私生活は立ちゆかなくなっていた。結婚した江戸京子ちゃんはピアニスト。どちらかが音楽の勉強をしている時、もう一方は勉強に集中できない。「音楽家同士の結婚は難しい」と誰かに言われたことがあった。確かにその通りだった。海外に居る間はいつも別居。結婚当初からうまくいかなかった。
 最後にはうちのおやじと京子ちゃんのおやじの江戸英雄さん、仲人の井上靖さんの話し合いになった。そこに僕が呼び出されて、最終的に離婚が決まる。でも離婚後も江戸英雄さんは僕のことを「息子だ」と言って、亡くなるまでかわいがってくれ、京子ちゃんとも後に良い友人に戻れた。
(指揮者)


小澤征爾(20)武満さんの傑作 西洋・日本の融合に歓声 初演の指揮、興奮収まらず
 武満徹さんの曲「蝕(エクリプス)」を1966年、日生劇場で初めて聴いた時は寒気がするほど感動した。琵琶と尺八が語り合い、叫び合う。日本の「間」や東洋の静けさがあった。その後、アメリカに戻った僕はレニー(レナード)・バーンスタインにいかにそれが素晴らしかったかを説いた。
 レニーはその頃ニューヨーク・フィルハーモニックの創立125周年を記念し、黛敏郎さんに曲を委嘱しようとしていたらしい。だが、僕の話を聞いて武満さんに決め、初演の指揮を僕に任せた。黛さんには悪いことをしたが、それで生まれたのが琵琶と尺八とオーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」だ。
 初演は翌67年11月。その前に尺八の横山勝也さん、琵琶の鶴田錦史さん、武満さんがカナダに来て、トロント交響楽団で徹底的に練習した。自分たちが初演するわけでもないのにトロント響のマネージャー、ウォルター・ハンバーガーは快くOKしてくれた。
 この曲は武満さんの傑作中の傑作だ。西洋と日本の音楽が一体になって、真の音楽を生み出している。ニューヨーク・フィルの練習では、聴き慣れない尺八の音に笑い出す楽員がいた。カーッと来て怒ったが、次第に全員が演奏に心を込めるようになった。横山さんと鶴田さんの真剣勝負に触れたからだと思う。
 初演の日。静かなオーケストラパートの後、二人のカデンツァが始まった。小刻みに震える尺八に、切っ先鋭い琵琶。ニューヨーク・フィルの連中が息を詰めて耳を澄ませている。指揮台の僕も興奮が収まらない。最後の尺八の音が消えた後、客席から「ブラボー!」の歓声がわいた。大成功だった。
 その1カ月後、今度はトロント響で「ノヴェンバー・ステップス」を録音した。メシアンの「トゥランガリラ交響曲」も一緒だ。メシアンたっての頼みだった。でも、長い難しい曲だから弾く方は大変だ。練習時間が長くなる分、報酬がかさむからオーケストラの経営にも負担がかかる。ハンバーガーがよく承知してくれたと思う。
 トロントではピアニストのグレン・グールドとも親しくなり、共演しようという話になった。放送局で演奏し、録音もする計画だ。何度も打ち合わせして、ちょっと変わった良いプログラムができあがった。現代曲や、バッハのチェンバロ曲をピアノで弾くのとか。なのに直前になってグレンが「嫌だ」と言って立ち消えに。そのくせ、変わらず平気な顔で僕と酒を飲んでいる。変わった男だった。
 69年4月、トロント響の日本公演で帰国した。東京文化会館での音楽会の後、楽屋に思いがけない人が来た。長く関係がぎくしゃくしていた斎藤秀雄先生だ。
 上野の食いもの屋に連れていってくれ、久しぶりにじっくり話せた。めったに人を褒めない先生に「お前も横に振れるようになってきたな」と言われたのを覚えている。指揮で横に振るというのは、ニュアンスを出すとか、あいまいな部分を表現することだ。極端な話、縦に振っていてもアンサンブルは合う。それ以上の音楽が作れるようになった、という意味だった。やっとわだかまりが解け、僕は芯からホッとした。
(指揮者)
| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 09:57 | - | - |
小澤征爾先生 私の履歴書13,14,15,16 日経新聞
(私の履歴書)小澤征爾(13)ミュンシュ 指揮で魔法かけたよう 「ぜひ教えて」アメリカ訪ねる
 コンクールが終わって何日かは、緊張が解けたせいか、ホテルの前の川でぼーっと釣りをして過ごした。コンクールはブザンソンの音楽祭の一環で、ほかにも色々な音楽会が開かれている。審査員だったシャルル・ミュンシュが指揮する音楽会があると聞いて、出かけていった。
 全く、あの時聴いたベルリオーズの「幻想交響曲」をどう言い表せばいいか分からない。こんな指揮者がいるなんて信じられなかった。長い指揮棒でもって、魔法をかけられたようだった。どうしたらあんなにみずみずしい音楽が生まれるのだろう。居てもたってもいられなくなった。
 最後のパーティーでのこと。僕は思いきって「ミュンシュ先生」と声を掛けた。振り返った顔は、さっきまで女の人たちと楽しそうに談笑していた様子とは違って、いかにも気難しそうだった。
 江戸京子ちゃんに通訳してもらって伝えた。「弟子にしてください」。返事は冷たかった。「私は弟子はとらない。大体、そんな時間はない」。がっくりきたが、「もし来年の夏にアメリカのタングルウッドに来るなら教えてもいい」と付け加えられた。
 ミュンシュはボストン交響楽団の音楽監督だった。ボストン響が毎夏タングルウッドで開いている音楽祭でなら教えるということらしい。僕らのやりとりをアメリカの放送局、ボイス・オブ・アメリカのヨーロッパ特派員、ヘイスケネンが聞いていた。ボストン響のかつての名指揮者、故セルゲイ・クーセヴィツキーの夫人と知り合いだから、音楽祭に参加できるよう掛け合ってくれるという。
 それを頼りに、僕はパリへ戻った。放送局のラジオ・フランスの主催で僕のお披露目の演奏会と記者会見が開かれたのは10月だったと思う。毎日新聞パリ支局長の角田明さん、画家の堂本尚郎さんが来てくれた。堂本さんに紹介されたのが、有名なナイトクラブ、クレイジーホースの店主アラン・ベルナルダンだ。
 僕が安酒ばかり飲んでいることを聞きつけたか「これからはうちの店で好きなだけ飲め」という。早速その夜に連れられて以来、時々通った。僕が行くと門番がふざけて敬礼する。アランの小さな部屋は四方の棚に酒が詰まっていて、どれを飲んでもよかった。新しい踊り子が入るとヌードショーをのぞく。僕は京子ちゃんと付き合い始めていたから「ばれたら具合が悪いなぁ」と思っていたけど、しっかりばれていた。
 アランとはその後も30年以上付き合いが続いた。ものすごい音楽ファンで、僕がパリで指揮する時には必ず聴きに来てくれた。ある日連絡が途絶えたと思ったら、自殺してしまった。あいつが生きていたらどんなに楽しいか、今でも時々思い出す。
 コンクールの後はそうやって酒を飲んだり、審査員だった作曲家ビゴーのもとで指揮のレッスンを受けたりした。コンクールに優勝すれば仕事が次々来ると思っていたのに、ほとんどゼロ。人生で一番、不安な時期だった。
 ボイス・オブ・アメリカのヘイスケネンさんからは約束通りタングルウッド音楽祭への招待状が届いた。1960年7月、僕は初めて国際線の飛行機に乗ってアメリカ大陸へ渡った。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(14)タングルウッド 音楽祭、若手向けの大賞 NYフィル入り勧められる
 パリからボストンまで飛行機で約9時間。窓からアメリカ大陸が見えた時は「また新しい生活が始まるのだ」と思って、ちょっと感動した。税関を通って外へ出ると、思いがけず出迎えがあった。パリで知り合った数学者の広中平祐さんだ。その晩はボストンの部屋に泊めてくれ、二人で思い出話に花を咲かせた。
 翌朝早く、長距離バスでタングルウッドに向かった。延々と草原が続く道を3時間ほど走って目的地に着いた。バークシャー山脈の中にあって、大きな森に包まれたところだ。ここで6週間にわたって音楽祭が開かれるのだ。
 まず指揮の試験を受け、合格した。これでミュンシュのレッスンが受けられる。さらに音楽祭の間、毎週木曜日に青少年オーケストラを指揮することが決まった。
 宿舎で同室になったのは、ウルグアイ人のホセ・セレブリエール。おどけてて、才能があるところが山本直純さんみたいだった。びっくりしたのがマーラーの交響曲のスコアを勉強していたこと。マーラーなんてほとんど演奏されていない頃だ。僕は名前こそ知っていたけれど、聴いたことはなく、スコアを見るのも初めてだった。
 音楽祭には僕以外に日本人がもう一人いると聞きつけて探しにいった。顔を見ると桐朋のヴィオラの河野俊達先生に似ている。恐る恐る話しかけたら「小澤じゃないか」。本人だった。1年半ぶりの再会に胸がいっぱいになった。
 ミュンシュの教えで強く印象に残っているのが、僕がドビュッシーの「海」を指揮した時のことだ。教えるといっても黙って部屋をうろうろするばかり。仕方ないから後にくっついていくと、しきりにフランス語で「スープル、スープル(柔軟に)」と言っている。つまり指揮するのに力を入れてはいけない、しっかり音楽を感じていれば手は自然に動くということだ。あの頃の僕はノン・スープルで固い指揮だったんだろう。
 僕の音楽会には有名な批評家のハロルド・ショーンバーグも来て、ニューヨーク・タイムズでべた褒めしてくれたらしい。後で知って感激した。
 音楽祭の最後には若い指揮者に与えられるクーセヴィツキー大賞を受賞した。かつてレナード・バーンスタインもとった賞だという。推薦者はミュンシュやクーセヴィツキー夫人らだ。誰かに「クリーヴランド管弦楽団のジョージ・セルか、ニューヨーク・フィルハーモニックのバーンスタインの副指揮者になるのが良いだろう」と言われた。
 クーセヴィツキー夫人やショーンバーグにはバーンスタインを勧められ、それでニューヨークへ行くことを決めた。大賞の賞金で99ドルの「超」中古車を買い、河野先生を乗せて、まずニュー・ヘイブンへ行った。日本フィルハーモニー交響楽団の元コンサートマスター、ブロータス・アールさんに会ってから、ニューヨークへ。桐朋の仲間で、留学していた志賀佳子ちゃんと伊藤叔ちゃんと夕食を共にした。
 何日かいて、ニューヨーク・フィルを訪ねた。秘書のヘレン・コーツが出てきて、バーンスタインはヨーロッパへ旅行中だという。秋にはベルリンにいるから訪ねるよう言った。1960年9月、僕はアメリカを後にしてパリへ戻った。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(15)井上靖さん くじけた心 叱りとばす カラヤンに師事、ドイツ通い
 「カラヤンが弟子をとるためのコンクールを開くそうよ」。アメリカからヨーロッパに戻ってきた僕にそう教えてくれたのはベルリン在住の歌手、田中路子さんだ。田中さんは斎藤秀雄先生と昔から親しく、何かと僕の面倒を見てくれていた。ご主人で俳優のヴィクター・デ・コーバさんは指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと友達で、ご夫妻は「ヘルベルト」とファーストネームで呼んでいた。
 カラヤンが1954年に初めて日本に来てNHK交響楽団を指揮した時、僕は近所のそば屋まで行って、窓越しにテレビでその様子を見ている。コンクールに通れば、あのカラヤンのレッスンを受けられるのだ。
 ところが試験会場で課題曲を間違えていることに気付いた。僕の番は明日だ。慌てて田中さんのお宅にこもり、徹夜で勉強した。50人ほど受けて4人くらい通過した中に、なんとか入ることができた。
 ベルリンでレッスンが始まったのは10月。後に西ドイツの首相になるヴィリー・ブラント市長が援助していて、プロのオーケストラを使うぜいたくなものだった。
 カラヤン先生は技術について細かいことは言わない。その代わり大事にしていたのが音楽のディレクション、方向性だ。時間の流れの中でいかに音楽の方向を定め、そこへ向かうか。いかに自分の気持ちを高ぶらせていくか。それを先生はシベリウスの交響曲第5番のフィナーレを使って僕に教え込んだのだった。
 その頃、パリには成城の同級生の水野チコが住んでいた。結婚した白洲春正さんが映画会社、東和のパリ支店の駐在員になったからだ。夕食に招かれたある日、アパートへ行くときれいな日本女性が出てきた。「いいなぁ、あんなお手伝いを雇えて」。思わずチコに言ったら、ばかでも見るような目で返された。「女優の若林映子さんよ」
 その時同席したのが批評家の小林秀雄さんだ。僕の名前を聞いて「君のお父さんを知っているよ」と言う。戦時中、北京の家を訪ねたことがあるそうだ。おやじは中国の人から贈られた壺を応接間に飾っていた。それをにせものだと気付いた小林さんがたたき割り、おやじが「贈ってくれた人の気持ちを飾っているんだ」と怒って、つかみ合いのけんかになったという。懐かしそうに話してくれた。
 毎日新聞パリ支局長の角田明さんの紹介で作家の井上靖さんに会ったのも同じ時期。井上さんはローマ五輪の取材の帰りで、僕がパリ案内のような役目を引き受けた。当時の僕はいくつかコンクールに受かっていたけれど、仕事はほとんどない。何度か指揮した群馬交響楽団の丸山勝広さんから「日本で一緒にやりましょう」と誘われたから、もうヨーロッパは諦めて日本に帰るつもりだった。レストランで食事しながら、井上さんにそう言うと「とんでもない」と猛烈に叱られた。
 「文学者の場合、外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいんだ。ひどい時には会ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても理解してくれるじゃないか。どんなことがあってもいなさい」
 はっとした。なるほどその通りだ。思い直して丸山さんに断りの手紙を書いた。井上さんの言葉はその後も心の支えになり続けた。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(16)NYフィル 日本公演 万感デビュー バーンスタインから任され
 カラヤン先生のレッスンに通っている頃、ニューヨーク・フィルハーモニックを率いるレナード・バーンスタインに会いに行った。秋にはベルリンで音楽会を開くと聞いていたからだ。本番の後、彼は僕を「リフィフィ」というバーへ連れて行った。
 ストリップをやっている妖しげな店で、そこでニューヨーク・フィルの副指揮者になるための面接らしきものを受けた。審査委員の楽員たちも一緒だ。ところが僕は英語ができないから何言っているかよく分からない。
 それでも冬には採用を知らせる手紙が届いた。期間は翌年の4月から1年半。だがまだカラヤン先生のレッスンが残っている。迷った僕は手紙を持って先生のところへ相談に行った。「セイジ、お前はおれの弟子だ。経験のためにニューヨークへ行って、終わったらまた来なさい」。温かく送り出され、僕は1961年3月半ば、ニューヨークへ向かった。
 副指揮者はリハーサルに立ち会い、指揮者に何かあれば代役をこなすこともある。僕以外に2人いた。給料は週給100ドル。小切手でもらうのだが、どう換金するのか見当がつかない。困っていたらニューヨーク・フィルのティンパニ、ソウル・グッドマンが僕をカーネギーホール裏の酒屋へ連れて行った。「ここのおやじなら大丈夫だ」と言うので、僕はそこで毎週現金に換えてもらった。
 音楽家のユニオンの費用を差し引くと、手元に残るのは90ドルあるかないか。生活するのがやっとで、いつも腹をすかせていた。この頃よく酒を飲ませてくれたのが彫刻家のイサム・ノグチと流政之だ。
 ニューヨーク・フィルは4月に日本公演を控えていた。もちろん、僕も一緒に行くことになっている。4月24日、僕は日本航空の特別機で羽田空港に着いた。約2年ぶりの日本だ。ハッチが開くと、みんなが「セイジが先に降りろ」と僕を押し出してくれた。出迎えていたのは懐かしい顔ぶれだ。おやじ。おふくろ。兄貴たちに弟のポン。成城の合唱グループ「城の音」のみんな。斎藤秀雄先生もいた。じーんと来た。
 5月、僕はできたばかりの東京文化会館で黛敏郎さん作曲の「饗宴」を指揮した。行きの飛行機でレニー(レナード)に「おまえがやるんだぞ」と言われていた。
 全く感激のデビューだったが、残念だったことがある。客席にいたはずの斎藤先生は終演後、僕を訪ねないで帰ってしまったのだ。話したいことはいっぱいあった。ヨーロッパにいる間も折々に手紙を出していたけれど、僕が勝手に外国へ飛び出したことが尾を引いていた。先生はドイツで音楽を勉強した人だから、僕にはドイツのオーケストラを指揮してほしかったのかもしれない。何となくまだぎくしゃくしていた。
 5月に日本フィルハーモニー交響楽団を指揮して、夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った。翌62年1月には江戸京子ちゃんと結婚する。給料が150ドルに上がった。いつもの酒屋に小切手を持って行ったら、おやじが「おっ、上がったな」とニヤリとした。
 その年の5月、僕はニューヨーク・フィルの副指揮者の任期を終え、今度はNHK交響楽団を指揮することになった。
(指揮者)



| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 09:55 | - | - |
小澤征爾先生 私の履歴書9,10,11,12
(私の履歴書)小澤征爾(9)1959年2月 縁に助けられ日本たつ 反対した師匠から「はなむけ」
 外国行きの見通しが立たず、僕はすっかり意気消沈していた。あれは桐朋恒例の北軽井沢での夏合宿の後だ。軽井沢の駅の待合室で成城の同級生、チコこと水野ルミ子にばったり会った。「征爾、何落ち込んだ顔してるの」。外国で音楽を勉強したいが手立ても金もない、と説明したら「うちの父に話してみる?」という。チコのおやじは水野成夫(しげお)さんといって、文化放送やフジテレビの社長だった。
 その足でチコの別荘へ行き、水野さんに会った。顔を合わせたことはあったが、ちゃんと話すのは初めて。僕の話を聞いて「本気なんだな?」と念を押すと、すぐに四ツ谷の文化放送へ行け、と言った。向かった先では重役の友田信さんが資金を用意してくれていた。確か50万円だった。
 桐朋の同期、江戸京子ちゃんのおやじで三井不動産社長の江戸英雄さんにもずいぶん助けられた。その頃うちのおやじがやっと歯医者に戻り、川崎に家を建てたから、仙川の桐朋まで通うのは大変だった。江戸さんはそれを知って、下落合の自宅に僕が寝泊まりできる部屋を用意したり、ご飯を食べさせてくれたりしていた。そもそも桐朋の音楽科は江戸さんが桐朋の生江義男先生たちと力を出し合って作ったものだ。
 その江戸さんが話をつけて、日興証券会長の遠山元一さんからも資金をいただいた。さらに江戸さんの手配で、フランス行きの貨物船に乗れることになった。
 あとは向こうでの足がいる。僕はスクーターで移動することを思いついた。江戸さんの家によく出入りし、後に彫刻家になった藤江孝さんと毎日新聞記者の木村さんと手分けして、片っ端から自動車会社に電話してスクーターの提供を頼んだ。が、良い返事はない。結局、おやじの満州時代の同志で、富士重工業の松尾清秀さんがラビットスクーターを用意してくれた。
 出航は1959年2月と決まった。準備やら送別会やらで忙しい日が続いた。スクーターは横浜で貨物船に預け、僕は神戸から乗船することにした。神戸に向かう前日は家族で水入らず。おやじが大まじめな顔で「水杯(みずさかずき)だ」と言い、2人で酒を酌み交わした。
 一つだけ、心に深く刺さっていたトゲがあった。斎藤秀雄先生のことだ。先生は僕のヨーロッパ行きに「まだ早い」と強く反対していた。最後には「まだベートーヴェンの(交響曲第)9番を教えていないからだめだ」と言われた。それを一方的に「行きます」と伝えて、逃げ出すように別れたきりだった。
 出発の夜。東京駅には大勢の人がプラットホームまで見送りに来た。桐朋のみんなや成城のラグビー仲間、合唱グループ「城の音」のメンバー、「三友合唱団」のおばさんたちもいて万歳三唱してくれた。涙が出てしまいそうで、みんなの顔をまともに見られなかった。
 その時だ。夜のホームの向こうから斎藤先生がトボトボ歩いてきた。コートのポケットから「これ、使えよ」と分厚い封筒を出してきた。後で確かめたら1000ドル近く入っていた。何より来てくれたことがありがたかった。おかげでどれだけ気が楽になったかしれない。いよいよ出発の時間が来た。下の俊夫兄貴と三等寝台に乗り込み、窓からみんなに手を振り続けた。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(10)淡路山丸 船員と投合 愉快な船旅 スクーター整備、暇見て訓練
 列車がとうとう動き出し、僕は3段ベッドの一番上に寝っ転がった。さっきまで仲間が大勢いたのに今は俊夫兄貴と二人きりだ。さすがに少ししんみりした。翌日、京都に着き、江戸英雄さんに「泊まっていけ」と言われていた日本旅館「土井」に一泊した。
 僕が生きて帰れないだろうと思って、最後のプレゼントのつもりだったのかもしれない。ずいぶん立派な旅館だった。一晩に2組しか泊めないという。兄貴と懐石料理を食べて檜(ひのき)風呂に入って寝た。
 翌日。神戸港で三井船舶の貨物船、淡路山丸に乗り込んだ。タラップが上がる。いよいよ出港だ。心配顔で埠頭に立つ兄貴に向かって甲板から叫んだ。「俺、ちっとも寂しくねえや」。そうして僕の長い旅が始まった。1959年2月1日、23歳だった。
 感傷はあまりなかったように思う。それより横浜で先に船に預けておいたスクーターのことなんかが気がかりだった。おまけに兄貴にギターを買っておくよう頼んだら、どういうわけか紙袋に入れてきたので、どう持ち運ぼうかとか、つまり現実的な心配が先に立った。
 旅は全く新しい体験の連続だった。日本を出て最初に着いたのはフィリピンだ。イロイロという港でしばらく停泊した。島の税関の若い男が船に来たので、ギターを弾いて歌を歌った。言葉は通じないがうまが合って、3日間イロイロを案内してもらった。美しい田舎街だった。インドのボンベイ(現ムンバイ)では船長さんのおごりで有名なヴェーグ四重奏団の音楽会を聴きに行った。
 男ばかり50人ほどいた船員さんたちはみな気の良い人たちだった。食うのが好きで、毎食うまいものが出る。コーヒーの味と匂いも覚えた。風呂は海水をあっためたのに入る。体がすっきりして何とも気持ちがいい。僕の部屋は船長室の横。ある午後、窓から外を眺めたら、水平線の向こうまで海が真っ平らに広がっているのが見えた。沈む夕陽の美しいこと。じっと見とれた。
 それにしても船旅は長い。暇にあかせて、スクーターを何日もかけて解体して、また組み立てた。故障した場合に備えて、事前に富士重工業の工場で組み立て方を教わっておいたのだ。そのやり方を忘れないように船でも時々練習した。
 親切な甲板長さんがその作業を手伝い、スクーターの横っ腹にペンキで日の丸を描いてくれた。大工の船員さんに言って、ギターを持ち運びできる木の箱も作ってくれた。船上で合唱したのも懐かしい。手書きで男声2部合唱の楽譜を作り、僕がギターで伴奏して「春のうららの〜」と歌う。実に愉快だった。
 船はインド洋を回ってアフリカへ。スエズ運河が渋滞しているので3日も4日もイカリを下ろして止まった。街へも行けないし、やることがない。若い船員さんたちと海に飛び込んで遊んでいると、船長が拡声器で「すぐやめろ!」と大声で怒鳴った。何だと思って甲板に上がったら、反対側に人間の3倍くらいあるサメが泳いでいた。ガタガタ震えが止まらなくなった。
 スエズ運河を通って地中海に入った船は3月23日早朝、ついにフランス・マルセイユに入港する。神戸港を出てから2カ月近くたっていた。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(11)パリへ スクーター 欧州駆ける 「強制送還だ」大使館から苦言
 マルセイユからスクーターに乗って、いよいよ出発だ。スクーターを提供した富士重工業が出した条件は3つ。日本国籍を明示すること、音楽家であることを示すこと、事故を起こさないこと、だった。それで僕は日の丸つきのスクーターにまたがり、淡路山丸の船員さん特製のケースにギターを入れてパリを目指した。泊まるのは決まって若者向けの安宿だった。
 道中で菓子を売るスタンドを見つけた。立ち寄って看板の文字を見ながら「この『ピー』をくれ」と言ったらまるで通じない。英語のパイ(pie)だった。全く、語学だけはちゃんと勉強した方がいい。
 パリに着いたのは4月の上旬。旅の疲れと寒さでひどい風邪を引いてしまった。ちょうど音楽評論家の吉田秀和先生が来ていたから、ホテルを訪ねて薬をもらった。座薬を渡されたがそんなもの使ったことがない。飲み込んでしまって一向に治らなかった。
 パリには、以前日本で斎藤秀雄先生にチェロを習っていたローラン史朗の一家がいた。お母さんが日本人で、うちへ行くと日本の飯を食わしてくれる。僕の座薬事件を面白がって会う人ごとにばらされた。そこによく来ていたのが国立高等音楽院に留学中のピアノの江戸京子ちゃんとバイオリンの前田郁子さんだ。
 画家の堂本尚郎を紹介してくれたのは京子ちゃんだったと思う。すぐに仲良くなって仲間の集まりにたびたび招いてくれた。中には彫刻家のイサム・ノグチもいた。心細い異国の地で仲間ができるのはありがたいものだと知った。
 僕が落ち着いたのは大学都市のイギリス館というところだ。切り詰めれば1年はいられる計算だった。大学都市の食堂で食べれば安く済む。小瓶に入った安ワインばかり飲んでいた。日本を出た後、斎藤秀雄先生がレオン・バルザンという指揮者への紹介状を送ってくれたので、そこでレッスンを受ける以外は音楽会へ通った。ほかにアテはなかった。
 6月のある日、京子ちゃんが「指揮者のコンクールがブザンソンであるわよ」と教えてくれた。せっかくだから受けてみよう、と早速願書を取りに行った。締め切りはまさにその日。しかも外国人は大使館の証明が要るという。
 急いで日本大使館に行ったらどうも様子がおかしい。イギリス館の家賃の支払いが何度か遅れたことを調べられた。おまけに僕はちゃんとした留学生じゃない。怪しまれて「証明どころか強制送還だ」と脅された。飛行機で送り返し、旅費は後で親に請求するという。そんなことになったらおやじに殺される。ほうほうの体で逃げ出した。
 イギリス館の同室のロジャー・ホルムズというオーストラリア人のピアニストが、窮状を見かねて「アメリカ大使館に知り合いがいるから一緒に行こう」と言った。わらにもすがる思いで向かった。
 対応したのはカッサ・ド・フォルテという恰幅(かっぷく)の良い女性だった。僕の説明を聞くと「おまえはいい指揮者か、悪い指揮者か」と尋ねてきた。「僕はいい指揮者だ」。でっかい声で言ってやった。カッサ・ド・フォルテは大笑いしたが、目の前ですぐコンクールの事務局に電話して掛け合ってくれ、何とか受けられることになった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(12)コンクール 開き直って指揮 初優勝 日本人は僕だけ、緊張の極み
 ブザンソンはスイスとの国境の近く、静かで美しい街だった。これからコンクールが始まる。歓迎パーティーに顔を出したら来ている連中はみんな自信があるように見えた。日本人は僕しかいない。
 第1次予選は9月7日で、48人が受けた。課題曲はメンデルスゾーンの「ルイ・ブラス」序曲で、思い思いのやり方でオーケストラを仕込む。といっても僕の場合、言葉が通じない。でも音楽用語は世界共通だ。「アレグロ!」「フォルテ!」などと大声で連発しながら指揮したら思いがけずうまくいった。思い切ってやってやれと度胸を固めたのがよかったのかもしれない。1次通過の17人に入った。
 2次予選は9日。今度も難関だ。課題曲はサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」とフォーレの組曲「ドリー」の第5曲。フォーレの方は、オーケストラのパート譜にわざと間違いが書き込まれている。例えばホルンとトロンボーンを入れかえてある。指揮しながらそれを指摘するという課題だった。
 神経を集中してオーケストラをじっと見つめた。誤りを発見すると途中で止める。僕は12の間違いを全部指摘できた。これは聴音の小林福子先生のもとで特訓を受けたおかげだ。終わった後、審査員席からどよめきが起こり、ぐんと自信がついた。2次も通過。もう6人まで減っていた。10日夜、とうとう本選だ。パリから江戸京子ちゃんと前田郁子さんが来てくれた。
 最後の課題曲はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ヨハン・シュトラウス「春の声」。作曲家ビゴーがコンクールのために書き下ろした曲もあった。変拍子の難しい曲で、これを5分で見てすぐ指揮しなきゃいけない。
 クジ引きで僕が最初に出場することになった。さすがに緊張の極みだったが、僕のポケットには斎藤秀雄先生に教わった大事なものがいっぱい詰まっている。動じず、思う存分棒を振った。
 結果発表はその日の夜遅くだったが、お客さんもオーケストラも残って待っていた。舞台の上から入賞者の名前が次々に読み上げられる。時間がとてつもなく長く感じた。最後に「ムッシュー、セイジ・オザワ!」の声が響いた。僕が1等だった。「ブラボー!」の歓声とすごい拍手が起こった。
 ステージの中央に呼ばれて賞金と腕時計、賞状をもらった。それからはもみくちゃだ。カメラに取り囲まれて、インタビューぜめにあった。
 もちろんうれしかった。でも「これでまだしばらくヨーロッパに居られるな」という安心の方が大きかった。何せコンクールの前、僕はあわや強制送還というところだったのだから。
 優勝の翌日、審査員の一人だった指揮者、ロリン・マゼールの部屋に呼ばれた。何かと思えばニヤニヤしながらピアノを弾き始める。本選の「牧神」でオーケストラがうまくできなかったところをわざとそのままにして僕に聴かせた。彼は若くして天才と呼ばれていて、その後、作曲家のナディア・ブーランジェのサロンで会った時も輪の中心にいた。僕なんか縮こまってコーヒーを飲むばかりだった。「牧神」を弾かれた時も「ホテルの部屋にピアノがあるなんてすげえな」と思った。
(指揮者)



| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 09:52 | - | - |
小澤征爾先生 私の履歴書 5,6,7,8, 日経新聞
(私の履歴書)小澤征爾(5)ラグビー少年 隠れて練習、指の骨折る 「指揮者はどうか」先生が促す
 成城学園中学に入ってしばらくすると、同級の松尾勝吾(あの新日鉄釜石の松尾雄治の叔父だ)に誘われてラグビーを始め、たちまち夢中になった。ポジションはフォワード。放課後は毎日、夕方遅くまで運動場を走り回った。
 豊増昇先生のピアノのレッスンがある日は、泥まみれの格好でお宅へ通う。兄弟弟子にはいま「左手のピアニスト」として活躍する舘野泉がいた。昔から貴公子みたいな男で、しゃれてモダンな奥さんにとても気に入られていた。その横で僕は随分むさ苦しく見えていたに違いない。
 舘野たちほかの弟子はリストやショパンを弾いていたが、僕がやらされたのはなぜかバッハばかり。うんと課題があって、必死で練習した。あの頃はピアニストになるつもりだった。
 同学年の安生慶、奥田恵二と初めて室内楽を演奏したのもこの時期だ。安生がバイオリンで奥田がフルート。山中湖にあったうちの別荘で合宿し、村の小学校のピアノを借りてバッハのブランデンブルク協奏曲第5番を練習した。1人のピアノ音楽ばかりやっていた僕は、仲間と音を合わせる喜びを知った。
 金田村から通学するのがあまりに大変なので、成城の酒井広(こう)先生のお宅に下宿した時期がある。先生は日本人と結婚したイギリスの貴婦人で、学校で英会話を教えていた。お宅にはピアノがなかったので、夜になると暗い森の中にある成城の音楽室まで行って練習した。その後は成城の教会の平出牧師の厚意で2階にも一時下宿し、オルガンでバッハを練習していた。
 バッハといえば豊増先生はその鍵盤楽曲の全曲演奏を始めたばかりだった。練習曲でも何でも全て弾く。弟子だから行かないといけない。「こんな退屈な音楽会あるか」と思って聴いていた。全くもったいない話だ。しかもおやじのミシン会社が失敗してうちがスッカラカンになってしまったから、途中から月謝は滞りがち。最後はただで見てくれたのだからありがたい。
 うちは本当に貧乏で、成城の学費を滞納するのもしょっちゅう。家計を支えたのはおふくろの内職だ。毛糸を編んで「九重織」というネクタイを作り、銀座の洋品店「モトキ」に卸していた。これが結構はやったのだ。機の両端を自分の腰と家の柱に結びつけて、一日中織っていた。
 おふくろは「ピアノを弾いているんだから指は大切にしないといけない」と言って、ラグビーを禁止した。それからは練習が終わると成城の銭湯で泥を洗い落とし、汚れたジャージーを仲間たちに預け、何食わぬ顔で帰った。おふくろは内職で忙しいから気付かない。が、とうとうバレた。
 あれは中学3年になる直前だったと思う。成蹊との試合で両手の人さし指を骨折し、顔を蹴られて鼻の中が口とつながった。そのまま救急車で病院に担ぎ込まれ、入院するはめになった。
 それからはさんざんだ。両親と兄貴たちには叱られ、弟にはあきれられた。退院後、包帯だらけの情けない姿で豊増先生のお宅へ行った。「もうピアノは続けられなくなりました」。そう言うしかなかった。「音楽はやめるのか」。黙っていたら先生が口を開いた。「『指揮者』というのがあるよ」。初めて聞く職業だった。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(6)指揮者を志す 弾き振り見て「これだ!」 担任が父に太鼓判、弟子入り
 指のケガでピアノが弾けなくても、音楽はやりたい。中学3年の時、同学年の安生慶と2級下の女の子たちで賛美歌を歌う合唱グループを作った。同学年の清水敬允や山本逸郎、俊夫兄貴、弟のポンも入った。僕が初めて指揮したのはこのグループで、今も「城(しろ)の音(ね)」の名で活動している。
 成城に昔からある男声合唱団「コーロ・カステロ」にも顔を出し、黒人霊歌やロシア民謡を歌った。指揮はOBの河津祐光(すけあき)さんだ。うねるハーモニー、アクセント、リズム。指揮で音楽が変わることを経験し、衝撃を受けた。
 ある日、日比谷公会堂でピアニストのレオニード・クロイツァーがベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」を弾きながら日本交響楽団を指揮するのを聴いた。ゾクゾクした。やはりその頃、安生に連れられて四ツ谷の聖イグナチオ教会でパイプオルガンを聴き、胃袋がぶるぶる震えたことがあった。同じような感動があった。これだ! と思った。
 でも指はまだ思うように動かない。本当に指揮者を目指すか、すごく悩んだ。そんな様子を見ておやじはこっそり、担任の今井信雄先生に相談したらしい。先生は3年間ずっと受け持ちだった。学校を出たてでまだ若く、その風貌から僕らは「山猿」と呼んでいた。おやじとは大酒飲み同士、気が合ったようだ。
 「彼はピアノより指揮者の方が向いています」。飲み屋で先生が断言したもんだから、おやじは安心し、僕が指揮者になるのを応援するようになった。随分たってからその事実を知り先生に確かめた。「実はあの時、指揮者が何だか全然知らなかった」と言うんだから、全く笑い話だ。
 一方、おふくろは「うちの親戚に指揮者がいるよ」と教えてくれた。おふくろの伯母のおとらさんの息子がチェロ弾きで、指揮もやるという。名前を斎藤秀雄といった。
 おふくろに書いてもらった手紙を持って、一人で麹町のお宅を訪ねたら、うんと怖そうなやせた人が出てきた。手紙を差し出して「弟子にして下さい」と頼んだ。「普通は親と一緒に来るもんだ」とあきれている様子だったが「1年後に桐朋学園の音楽高校を作るから、そこに入りなさい」とのことだった。
 先生は戦後、作曲家の柴田南雄や入野義朗、ピアニストの井口基成、声楽家の伊藤武雄、音楽評論家の吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を作り、基礎から音楽を教えていた。今度は普通高校の桐朋に音楽科を設けるという。
 まず成城の高校に進学して1年待つことにした。その間に柴田先生に作曲を、聴音を小林福子先生に習った。指揮は斎藤先生の弟子の山本直純さんに基本を教わり、月に2度ほど先生に見てもらった。
 うちはその頃、金田村から引っ越していた。世田谷区代田の貸家に移ったものの、家賃が払えなくなって経堂の東京農大の校舎に住み着いた。おやじの知り合いに農大の関係者がいて、空き教室を使わせてくれたからだ。相変わらず貧しかった。
 先日、悲しいことが起きた。中学時代からの親友の安生が4日の夜に亡くなったのだ。年末に体調を崩したと聞いて、毎日会いに行っていた。僕を音楽の世界に導いた恩人の一人は間違いなく安生だ。安生、ありがとう。でも急ぎすぎだぞ。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(7)音楽高校へ 猛烈レッスン 即座に雷 雑用に忙殺、十二指腸潰瘍に
 斎藤秀雄先生は指揮の動作を徹底的に分析し、「たたき」「しゃくい」「はねあげ」など7つに分けていた。どの動きもいつ力を抜き、入れるかは厳密に決まっている。それを頭で考えながら指揮なんてできないから、筋肉に全部覚えさせなきゃいけない。
 「歩く時に坂を上がろう、角を曲がろう、といちいち考えないだろう?」と先生は言った。動作を体にたたき込むのに歩いている間も電車に乗っている間も腕を振った。変なやつと思われただろうが、周りの視線にも気付かないくらい集中していた。
 1952年、いよいよ桐朋学園の音楽高校に入学する。同期の男子は4人。頭が切れる村上綜(声楽)、まじめな林秀光(ピアノ)、スマートなホリデンこと堀伝(ただし)(バイオリン)、お山の大将の僕(指揮)、という顔ぶれだった。
 斎藤先生はめちゃくちゃ厳しかった。指揮のレッスンはピアノをオーケストラに見立てて行う。女の弟子の久山恵子さんのレッスンで、僕と直純さんが連弾した。練習が足りず、弾けないところは口三味線で「ララララ〜」なんて歌ってごまかしてたら、とうとう「バカにするな!」と雷が落ちた。
 あまりの剣幕(けんまく)に、2人して庭からお宅を飛び出し、近くの公衆トイレの陰に隠れたら、奥さんの秀子さんが僕らの靴を持って追いかけてきた。でもあのレッスンは後で役に立ったと思う。細かなニュアンスを弾き分け、オーケストラの音を想像する訓練になったからだ。バイオリンやチェロのピアノ伴奏もやれと言われて、ずいぶんやった。
 僕は目が回るほど忙しかった。先生に桐朋の学生オーケストラの雑用一切を任され、譜面台や楽器の手配、椅子並べ、パート譜の印刷、校正と次から次にやることがあったからだ。楽譜の間違いがあったり、譜面台が壊れてたりすると「小澤!」と怒鳴られた。
 見かねたホリデンが手伝ってくれることもあったが、仕事はいくらでもあった。帰る頃にはヘトヘトだ。ほかの生徒は楽器だけ練習していればいいのに、なんで僕ばかりこんなに大変なのか、と一時期は先生をうらんだものだ。
 指揮の勉強もあるし、休みなんてなかった。土曜日の午後には「子供のための音楽教室」の生徒たちも加わって、オーケストラの練習がある。夏休みになれば北軽井沢で合宿だ。合宿所は地元の小学校。一日中練習し、夜は教室にむしろを敷いて寝た。
 先生は子供にも容赦せず、怒鳴りつけては震え上がらせた。保護者も何も言えなかった。先生と生徒の間に立っていたのが桐朋の事務方の伊集院清三先生だ。よく生徒の味方になってくれた。怒られている僕に助け舟を出してくれたこともある。上品で優しい、本当の人格者だった。
 高校時代の僕はいつも忙しく、ひょろひょろに痩せていた。ある日、胃が痛くなって固いものが喉を通らなくなった。十二指腸潰瘍だった。斎藤先生の親戚(つまり僕の親戚でもあるが)の橋本寛敏院長がいる聖路加病院で看(み)てもらったところ、食事療法で治すことになった。主治医は菅原虎雄先生と日野原重明先生。完治できたのは、この先生たちのおかげだ。
(指揮者)


(私の履歴書)小澤征爾(8)桐朋短大進学 米楽団の音にブッ飛ぶ 海外で勉強したい…でも留年
 高校3年の卒業公演で桐朋オーケストラを相手にバッハの「シャコンヌ」を振ることになった。バイオリンの曲を、斎藤秀雄先生がオーケストラ用に編曲したものだ。十数分の曲を先生は半年かけて僕に教えた。
 バッハの原典にはテンポの指定がない。音楽記号も書かれていない。でも先生は楽譜を読み尽くし、音楽を細かく構築した。しかも「一番音域が広いここが音楽の頂点で」というようにすべて言葉で説明できた。後年、ベルリンでバイオリニストのヨゼフ・シゲティの引退公演を聴いた時、「シャコンヌ」が先生のやり方と全く同じで驚いたことがある。
 先生はそれだけ才能があったのに極端なあがり症だった。本番の演奏会で指揮する時は普段と全然違う。手が先走って「先入(せんにゅう)」という指揮法をやたらに使うのだ。何の気なしに「先生、今日は『先入』ばかりでしたね」と言ったら「そんなこと言うな!」とドヤされた。半年に一回くらいそれで怒られて、兄弟子の山本直純さんにあきれられた。
 話を戻そう。卒業公演の「シャコンヌ」は直純さんや岩城宏之さんも聴きに来て、終演後に「感動した」と言ってくれたのがうれしかった。卒業後は桐朋学園短期大学に進む。5月にアメリカのオーケストラ「シンフォニー・オブ・ジ・エア」が日本にやってきた。指揮者アルトゥーロ・トスカニーニが率いていたNBC交響楽団の後継だ。
 斎藤先生に言われて、公開練習を聴きに行ったんだと思う。曲はブラームスの交響曲第1番だった。いきなりブッ飛んだ。日本のオーケストラとはまるで響きが違う。冒頭のティンパニの強烈な音は今も体に残っている。
 音楽やるなら外国へ行って勉強するしかない。心に決めた。同期の江戸京子ちゃんとか、桐朋の仲間たちは次々と留学していった。僕はいつも羽田空港で見送る方。相変わらず先生のかばん持ちとして雑用に追い立てられる毎日で、焦るような、もどかしいような気持ちが膨らんだ。
 そして迎えた卒業式。なぜか僕の名前が呼ばれない。あるはずの卒業証書もない。留年していた。単位が足りなかったのだ。しかも誰も教えてくれなかった。かわいそうに、張り切って着物で来たおふくろは泣きながら帰ってしまった。僕は謝恩会の幹事まで引き受けていたというのに。
 声楽の伊藤武雄先生が「いいんだ、卒業なんかしなくたって」と慰めてくれたが、そんなむちゃな話はない。また学費を払うのに、アルバイトしなきゃいけなかった。しばらく伊藤先生の紹介でアマチュアの三友合唱団を指揮した。あとは斎藤先生に言われて群馬交響楽団へ行き、初めてプロのオケを指揮したのが良い経験になった。
 翌年、とにかくヨーロッパへ行こうとフランス政府給費留学生の試験を受けた。僕と、桐朋オーケストラのフルートで弟分の加藤恕(ひろ)彦が最終審査に残った。語学ができて優秀な加藤が受かり、僕が落っこちた。
 羽田で見送るのはまた僕だった。パリ国立高等音楽院に入った加藤から届く手紙を読んではジリジリした。どうにか留学できないか八方手を尽くしたが、はかばかしい答えはないまま、時間だけが過ぎていった。
(指揮者)












| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 09:44 | - | - |
小澤征爾先生 私の履歴書4
(私の履歴書)小澤征爾(4)自宅にピアノ 横浜―立川 兄がリヤカー 小学生時代、音色にときめく


 戦時中、上の克己兄貴にアコーディオンを教わっていた僕は、だんだん物足りなくなった。小学校の担任の青木キヨ先生はピアノができる人で、ある日講堂で弾いている時に「触ってもいいよ」と言って隣に座らせてくれた。初めてピアノに触れたのはその時だ。小学校4年の終わり頃だった。
 最初の教則本「バイエル」を僕に手ほどきしたのは克己兄貴だと思う。旧制府立二中(現在の都立立川高校)に通っていた兄貴も同じ頃に音楽に目覚め、音楽の先生にピアノを習い始めていたのだ。特別に二中のピアノを使わせてもらい、僕にレッスンした。下の俊夫兄貴と「征爾にもっと本格的にピアノをやらせたいからうちにも1台あるといいね」と話しているのをおやじが耳にしたらしい。
 おやじが方々ツテを探し、静叔父の奥さん、英子さんの横浜の実家にあるアップライトピアノを譲ってもらえる話がまとまった。値段は確か3千円。うちには余裕がなかったからおやじが北京で買って愛用していたカメラのライカを売って工面したのだった。
 算段をつけたのはいいが、どうやって持ってくるかが問題だ。結局、兄貴たちがリヤカーを借りてきた。道中、農家に一晩ピアノを預けたり親戚の家に泊めてもらったりして、3日かけて横浜から立川の家まで運んできた。心配になったおやじが後から追いかけたくらいだから、ずいぶん重労働だったはずだ。
 そうやって届いたピアノの蓋を開けて、ド・ミ・ソと鳴らしたとき、なんてきれいな音なんだろうとドキドキした。5年生の秋には学芸会でベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾く。初めて人前で演奏した。
 俊夫兄貴の同級生で、レコードマニアの鈴木次郎さんという人がいた。兄貴にくっついてその人の家でレコードを聴くのが楽しみだった。バリトンのゲルハルト・ヒュッシュが歌うシューベルトの「冬の旅」や、モーツァルトのピアノ協奏曲「戴冠式」をよく覚えている。やはり俊夫兄貴の知り合いで、盲目のピアニストの直井さんにもずいぶん、ベートーヴェンの「熱情」とかの演奏をじかに聴かせてもらった。そうやって1曲1曲、うんと空気を吸い込むようにして音楽を体に染み込ませたものだ。
 おやじは歯医者に戻ればいいものを「長いことやってないからもう忘れた」と言って、商売を始めてはことごとく失敗した。僕が小学校6年生の時にはミシン製造の会社を始めるというので、立川の家を売り払い、小田原の近くの神奈川県足柄上郡金田村へ移る。わらぶき屋根の古い農家に住み、おふくろが慣れない百姓仕事で米を作って育ち盛りの4人の息子を食わせた。
 中学に入学する段になって、慣れない農村の学校よりは私学のほうが良かろうということになった。家からは2時間半もかかったが、おふくろが成城学園に決めた。入学は48年4月。ピアノの豊増昇先生に弟子入りしたのもその頃だ。不思議なもので、先生のお兄さんがおやじの新民会の仲間だったのだ。ドイツ帰りの高名な先生で、新しいお弟子はとっていなかったが、特別に見てもらえることになった。
(指揮者)
| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 09:29 | - | - |
小澤征爾先生 私の履歴書3
(私の履歴書)小澤征爾(3)敗戦の日 父から「好きなことやれ」 空襲警報気にかけず、間一髪


 おやじは官僚政治や権威主義を心底嫌っていた。理念も持たず中国人を蔑視する政治家や軍人が増えると、手厳しく批判した。1940年には言論雑誌「華北評論」を創刊する。「この戦争は負ける。民衆を敵に回して勝てるはずがない」とおおっぴらに主張し、今度は軍部に目を付けられるようになった。
 「華北評論」は検閲で真っ黒に塗りつぶされ、何度も発禁処分を受けた。日中戦争を底なしの泥沼と見たおやじはおふくろと僕たち兄弟を日本に帰すことに決める。
 「軍の輸送に迷惑をかけるから余計なものは持って行くな」と厳命され、家財道具はほとんど置いてきた。持ち帰ったのは着替えと中国の火鍋子、家族の写真アルバム。それからアコーディオンもあった。僕が生まれて初めて触った楽器だ。船と列車を乗り継いで日本に引き揚げた。41年5月だった。
 住まいは東京の西、立川市の柴崎町。若草幼稚園に1年間通った後、42年に柴崎小学校に入る。学校ではどうかすると「是(シ)(はい)」「不是(プシ)(いいえ)」とか中国語が出て悪ガキどもにからかわれた。頭に来て黙っていたら中国語はすっかり忘れてしまった。
 北京に1人残ったおやじは「華北評論」の刊行を続ける。「小澤公館」の看板を掲げた家には従軍記者の小林秀雄さんや林房雄さんも訪れたらしい。次第に軍の圧力は強まり、43年、おやじは追放されるように日本に帰ってきた。
 だんだん空襲がひどくなり、2人の兄貴が庭に掘った防空壕(ごう)にたびたび潜り込んだ。ある日、警報のサイレンが鳴っても構わず、庭で弟のポンと遊んでいたら敵機がダダダダーッと撃ってきた。隣の桑畑に砂煙が上がった。腰を抜かしたポンがその場にへたりこんだ。低空飛行だったから操縦士の顔がぼんやり見えた。初めて見る西洋人だった。あの頃は食う物がなくて、よくおふくろとポンと多摩川まで雑草を摘みに行ったのを覚えている。
 おやじは引き揚げ後、陸軍の遠藤三郎中将の委嘱で軍需省の顧問をやる一方、満州時代の仲間と対中和平工作を始めていた。国民党の蒋介石が交渉の条件として「天皇の特使として石原莞爾を出せ」と言ってきたらしい。そのために手分けして重臣たちの説得に当たっていたようだ。おやじは、敗戦後間もなく割腹自殺した陸軍の本庄繁大将の担当だと言っていた。だが工作は結局、失敗する。
 45年8月6日。広島に原子爆弾が落ちた。広島で軍医をしていた叔父の静は命こそ助かったものの被爆している。9日、長崎にも原爆が落とされた。15日、敗戦。玉音放送を家族で聞いた。おやじが僕たち兄弟に言った。
 「日本人は日清戦争以来、勝ってばかりで涙を知らない冷酷な国民になってしまった。だから今ここで負けて涙を知るのはいいことなのだ。これからは、お前たちは好きなことをやれ」
 敗戦から何日かして、おやじが今度は突然「これからは野球だ」と言い出した。おふくろにごわごわした布きれでグローブを作らせ、僕や近所の子供を集めて野球チームを作った。おやじが監督で、僕がピッチャーだった。小学4年生の夏のことだ。
(指揮者)
| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 09:28 | - | - |
小澤征爾先生 私の履歴書2
(私の履歴書)小澤征爾(2)満州生まれ 饅頭ほおばり始まる朝 家族での賛美歌、長兄が伴奏
 

僕は1935年9月1日、今の中国瀋陽市、旧満州国奉天に生まれた。おやじの開作は山梨県西八代郡高田村の生まれだ。東京で苦学して歯医者になり長春で開業したが、僕が生まれた頃にはもうやめていた。当時共産革命でできたばかりのソ連の脅威に立ち向かうには、アジアの民族が一つにならなければならないとの信念から、政治活動にのめり込んだ。おやじは百姓の息子なので、田植えでは村中が団結して、協力し合わなければならないことを体験していたからである。
 満州青年連盟長春支部長を務めていた時に関東軍作戦参謀の石原莞爾さんと板垣征四郎さんに目をかけられ、やがて親しく交わる。二人の名前から一字ずつもらい僕に「征爾」と名付けた。おふくろのさくらによれば、出生の知らせを聞いた時にちょうど二人と一緒にいたらしい。子供のころは書けなくてよく「征雨」と間違えたものだ。
 おやじが新しい政治団体「新民会」を作るというので、僕たち一家は翌年、中国・北京の新開路に引っ越す。落ち着いた先は胡同(フートン)の中にある四合院造りの屋敷。中庭を取り囲むように建物が立ち、立派な門の両脇には狛犬(こまいぬ)がいた。
 うちは男ばかり4人兄弟で、上から克己、俊夫、僕、幹雄(あだ名はポン)の順だ。北京の家にいたのは両親と僕たち兄弟のほか、おやじの郷里から呼び寄せた2人のお手伝いさん、中国人のお手伝いの李さん一家。「新民会」の青年たちもしじゅう出入りしていた。おやじは彼らを中国のあちこちへ派遣し、貧しい農村があれば懸命に手助けをした。なかには内地で何年も牢獄(ろうごく)に入っていたような元共産主義者もいて、うちには朝から晩まで憲兵が張り付いていた。
 小山さんというその憲兵は丸顔のかわいい人で、兄貴たちとチャンバラごっこで遊んでいた。おふくろは人を分け隔てしないタチだから、食事になると小山さんも呼んで一緒に円卓を囲む。そのうちすっかり仲良くなり、しまいにはうちにいたお手伝いのきよじさんと結婚した。
 幼い僕の好物は中国の蒸しパン、饅頭(マントウ)。朝は「要幾個(ヤオジーガ)饅頭(饅頭いくついるかね)ー」という饅頭売りのラッパと声で目を覚ました。朝飯はいつもほかほかの饅頭だ。中庭にゴザをしいて、みんなで頬張った。兄貴たちが学校へ行くと、うちで李さんの娘の亜林(ヤーレン)とばかり遊んでいた。一度、一人で門の外へ出たら、自転車にひかれて目の上を切ってしまった。全く間抜けな話だ。その傷は今も残っている。
 北京の冬の思い出はなんと言ってもスケートだ。中庭に水をまいて凍らせて、みんなで滑る。最初は兄貴たちの手につかまっていたのが、すぐに上手になった。北海公園や中南海の池でもよく滑った。
 日曜になるとクリスチャンのおふくろに連れられて教会で賛美歌を歌う。家でもみんなで合唱だ。おふくろが歌うとどういうわけか少しずつ調子が上ずっていく。合わせるのが大変だった。
 5歳のクリスマス。おふくろが大雪の中、大通りの王府井(ワンフーチン)まで行き、アコーディオンを買ってきた。克己兄貴はみるみるうちに上達し、僕らの合唱の伴奏をするようになった。僕と音楽の出合いだ。
(指揮者)
| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 09:25 | - | - |
小澤征爾先生 私の履歴書1
現在、日経新聞に連載中の「私の履歴書」は、
桐朋の大先輩でいらっしゃる小澤征爾先生の月です。
少しずつご紹介いたします。




私の履歴書)小澤征爾(1)

指揮者として 多くの人の力が支えに 今、音楽をやれることに感謝 


 体はふわりと軽かった。舞台の上ではラヴェルのオペラ「こどもと魔法」が進んでいる。舞台下のピットにはサイトウ・キネン・オーケストラのメンバーがいる。
 去年の8月。2年ぶりに、僕が総監督を務める長野県松本市の音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」で指揮をした。色々と大変なこともあったけど、今ここで仲間と音楽をやれている。何とも言えない喜びがどんどん湧き出てきた。音楽家になってよかった。
 いつも先のことばかり考えてきた。今日音楽会でやった曲のことは終わった後にすぐ忘れないと、次の曲に入っていけない。目の前のことに集中するには、それ以外のことはすべて忘れることだ。何十年間もそうしているうち、いつの間にか「忘れる技術」が身についていた。だから昔のことを振り返ることもあまりなかった。何せいつも忙しくて、そんな余裕もなかったから。それが変わったのは、病気をしたのをきっかけに時間ができたからかもしれない。
 2009年の12月、人間ドックで食道がんが見つかった。摘出手術は無事に成功したが、その新しい体に慣れるのに時間がかかった。音楽監督をしていたウィーン国立歌劇場の仕事もキャンセルしなきゃいけなくなった。体力を取り戻すのに、思いのほか骨が折れた。
 それでもいざ指揮台に立てば体調のことなんか全く忘れてしまう。翌年の12月、ニューヨークのカーネギーホールでの復帰公演。サイトウ・キネン・オーケストラとベルリオーズの「幻想交響曲」を演奏した後、楽屋に戻った途端に意識を失った。
 3日後、ブリテンの「戦争レクイエム」を何とかやり通したが、肺炎を引き起こしてしまった。その後も体の不調で指揮をキャンセルすることがたびたびあって、とうとう12年3月から1年間、休養に専念するはめになった。たくさんの人に迷惑をかけてしまい、申し訳なくて気持ちが沈んだ。
 でも悪いことばかりではなかった。おかげで音楽を勉強する時間がうんとできた。友人の村上春樹さんと音楽についてじっくり話す機会にも恵まれた。昔のことを思い出すゆとりもできた。
 家族や親しい仲間と昔話をしていると、思い出が次から次へとあふれてくる。音楽との出合い。最初はピアニストを目指していたこと。なんで指揮者になろうとしたのか。恩師・斎藤秀雄先生のこと。若い頃に運良く海外へ行けて、そこでも素晴らしい先生たちに巡り合えたこと。いろんな人の応援。
 ずいぶん多くの人に助けられてきた。改めて気付いた僕はお世話になった人たちに感謝したくなって、久しぶりに電話したり、会いに行ったりした。
 だいたい指揮者という商売は、自分一人ではどんな音だって出せない。演奏家や歌い手がいて初めて音楽が生まれる。宿命的に人の力がいるのだ。
 どんな人たちに支えられてきたか。その恩人たちを紹介するのが僕の「履歴書」なのかもしれない。それにはまず生まれた時のことから順に追っていくのが良さそうだ。このごろ物忘れがひどくて、よく「アレアレ」「ホラホラ」なんて言っている僕でも、子供のころのことは鮮やかに覚えている。
(指揮者)




| 小澤征爾先生 私の履歴書 日経新聞 | 10:38 | - | - |
CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
モバイル
qrcode
LINKS
PROFILE